| 東海地方 |
| 伊勢(三重県) |
織田信長と長島一向一揆衆徒との戦いの舞台
伊勢
| 築城時期: 1482(文明14)年 | 築城者: 伊藤重晴 |
移築 長島城大手門
縮小されてはいるが、増山氏の家紋が瓦に入っています 高麗門形式、明治9年(1876)に払い下げを受けて移築 移築先 蓮生寺:桑名市長島町長島中町77 |
| 遺 構 《 遺構/堀跡・石垣の一部 移築/城門 》 | |
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“木曾三川”の木曽川と長良川・揖斐川に挟まれた「輪中」の中の城、織田信長と「長島一向一揆の戦い」で知られる長島城。デルタ地帯の中洲に築かれた水城とも云えるこの城も、今では跡形もなく変わってしまっている。
この地は、尾張・伊勢に接し、さらに川を溯れば美濃と、一帯の河川海上交通の要衝であるが、木曾三川がひとつになって伊勢湾に注ぐこの流域は、かつては、幾多の川筋が流れを変え、中央に長島があって島が幾つか並ぶと云った地域で、四方を難所に囲まれた大要害の地であった。
長島城は現在の長島中学校,長島中部小学校一帯であるが、東側の小川がその名残を留めています。
学校の前を流れる小川の対岸、東方の街中にある蓮生寺には、長島城を偲ぶ唯一の遺構である大手門が移築して現存しています。
1574(天正2)年、織田信長は三度目の長島征伐により長島城を落城させ、長島城は北勢を与えられた滝川一益の持城となった。
“関が原の役”の後の江戸時代、菅沼氏2代が2万石、松平(久松)氏2代が1万石で城主となる。
1702(元禄15)年、常陸下館より増山正弥が2万石で入って、増山氏が8代続いて明治に至った。
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城址本丸跡にあたる中部小学校
学校の反対側(市道向かって右側=東側)には 堀跡を思わせる小川が流れています |
校庭の「老大松」 (クロマツ)
校庭のこの位置は、江戸時代の本丸南西隅の御殿跡にあたる |
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◇◇ 増山家の成り立ち ◇◇
増山家が大名に取り立てられたのは、正弥の先代増山正利の時で、正利は4代将軍家綱の生母宝樹院の弟であった。姉が将軍後継者を産んだため、弟・正利は当初1千石で召し出され増山氏を名乗る。相模のうちで1万石、三河西尾2万石となり、甥の正弥に継いで、常陸下館を経て、伊勢長島に移封となったものである。
3代将軍徳川家光の側室となって家綱を生んだ宝樹院(本名はお蘭、別名お楽の方・高島御前)の父・青木利長は、下野国(現栃木県大平町)の農民(のちに下級武士)の出。
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〓 伊勢長島一向一揆 〓
元亀元年(1570)には石山戦争が起こり、本願寺11世法主顕如が各地の本願寺の末寺に対し檄文を飛ばし、対信長戦争への宣言布告が行われた。この檄文は、「若し、無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候也」とされた激しいものであった。これに呼応した長島願証寺を中心とした一揆衆は、長島城を落とし、尾張に侵入して小木江城(愛知県愛西市)の信長の弟・織田信興を自刃に追い込む。
翌2年、肉親を敗死させられた信長は、自ら第1次長島攻めを行うが、伏勢によって、柴田勝家を負傷させ、氏家ト全を戦死させるごとき始末となってしまう。
一向一揆は単なる農民一揆とは異なり、本願寺から派遣された坊官により統率されたれっきとした戦闘集団でした。さらに現世的欲求を超越した論理によって行動していたため、その戦いに安易な落としどころは存在しません。敵を殲滅あさせるか、自身が全滅するか。決着の付け方は二つに一つしかなかったといっても過言ではない。
信長を悩ませ続けた一向勢力・・・その報復は、
餓死を逃れても虐殺の炎が待つ殺戮の舞台となった! 翌天正2年、いよいよ総攻撃を開始。第3次長島一向一揆攻めの決着は、宗教戦争の陰惨を地で行く酸鼻を極めるものであった。 数万の大軍をもって攻撃開始。九鬼水軍を動員して安宅船で伊勢湾を海上封鎖、包囲して兵糧攻めとした。さしもの一揆勢も餓えには勝てず、多数の餓死者を出した。 信長の憎しみは深く、囲い込んだ一揆の根絶やしを考えていた。降伏を望んで逃げ出してきた男女千人を斬殺、そして、長島城内に逃げ込んだ門徒二万人を老若男女の別なく焼き殺したと伝えられています。 |
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願證寺 前景
所在地:桑名市長島町又木434 |
願證寺境内にある「長島一向一揆衆徒殉教の碑」
往時の願証寺は、治水工事により長良川に水没しており、 こちらは再興されたお寺です |
配置図
(現地案内板より・正保年間のものと伝わるが詳細は不明) |
| 登城アクセス | |
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車 : 東名阪道長島IC/直進〜押付/右折〜R1〜長島橋袂手前(中部幼稚 園)/右折〜市道(約150m先)〜左折して渡橋〜右折/稲荷神社〜約150m先 駐車場 : 無し(長島中部小学校前に7〜8程度の駐車スペースあり) |
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