| 東海地方 |
| 駿河(静岡県東部) |
市街地に埋没してしまった武田氏の駿河侵攻の支配拠点
| 築城時期: 1569(永禄12)年 | 築城者: 武田信玄 |
江尻城址 案内解説板
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| 遺 構 《 遺構/なし 》 | |
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江尻城は巴川を背後に控えた微高地上に立地し、清水江尻小学校となっている本丸を中心に三方を囲う輪郭式のの平城であった。近くの小芝神社は三の丸跡に当たる。
近世の絵図によると、甲州流築城術の特徴の一つである丸馬出しが設けられ、各郭を囲む堀や三日月堀は巴川の水が引き入れられた水堀であったと思われる。
現在は市街地に埋没してしまい、当時の姿を偲ばせる遺構などは何も無いが、大手や二の丸町、元城町などの地名に城の痕跡を見出すのみとなっている。
1575(天正3)年、“長篠の戦い”で昌景をはじめとする武田の重臣が多数討死し、武田勝頼は衰退の道を辿り、江尻城代には、駿河横山城を守っていた武田親族衆筆頭の穴山梅雪(梅君)が入って、江尻城は堅固な城郭へと大改修された。
1582(天正10)年、梅雪は家康と共に旧領安堵の御礼言上に近江安土に赴き、その後、家康の堺見物に同行した梅雪は、6月3日、“本能寺の変”に遭遇。急遽、家康と梅雪は海路と陸路に別れて帰国したが、梅雪は途中の山城国綴喜郡木津川河畔で落ち武者狩りの土民の手により横死してしまった。
その後、家康の臣・松平家忠が江尻城主となったが、天正18年、家康の関東入国により、駿府城主・中村一氏の家臣・横田隼人が城代となった。
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清水江尻小学校敷地内にある城址碑と案内解説板
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城の痕跡を見出す地名の「二の丸町」
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掲載の城址碑と案内解説板は、本丸跡である清水江尻小学校敷地内のプレハブ風保育園舎の東側に位置しています。
また近くの小芝神社の正面入り口の鳥居脇にも別の案内解説板が設置されています。 |
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近くの小芝神社の鳥居脇にたつ城址案内解説板 |
復元図と小字名
(現地案内解説板より) |
| 登城アクセス | |
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車 : 東名高速清水IC〜右折/静清バイパス〜左折/清水IC西〜県道4号線 (八坂通り)・国道1号線〜左折/江尻大和の先の交差点〜右折/江尻五差路 〜清水江尻小学校 駐車場 : 許可を得たうえで学校敷地内の駐車スペースに駐車 |
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