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東北地方

陸中(岩手県)

珍しい現存冠木門の残る伊達家藩政時代の要害

水沢城[みずさわじょう] 別称=臥牛城・水沢要害  (平 城)  【所在地】 奥州市水沢区大手町一丁目

築城時期:  不明 築城者:  葛西氏家臣か?

みずさわ じょう 市役所脇にある珍しい現存の冠木門(黒門)

 遺 構  《 現存/冠木門・武家屋敷・塀  遺構/曲輪・土塁・堀跡 》
 水沢城跡は、現在の奥州市役所周辺の大手町界隈にあります。市街地化が進んで遺構はほとんど確認できないが、藩政時代の頃には、伊達家の一門が居城した「要害(ようがい)」となり、今日の武家屋敷が点在する街並みを形成するに至ったと思われます。
 城域は微高地にあり、北西から流入する乙女川(御留川)が城の北辺にあたり、水堀としての役割とともに物資輸送路としても利用されていたと思われる。

 城の規模は不明だが、当時の絵図を見てみると、本丸から時計回りに二の丸、三の丸、南曲輪を配したわりあい単純な縄張りになっている。この東方には、城内へ入る人を監視した四角い空地の「大手枡形」があったことを示す標柱があります。
 現在、本丸・二の丸・南曲輪跡などは住宅地化していて、、三の丸のおよそ東側半分が奥州市役所や水沢総合支所合同庁舎になっています。
珍しい現存冠木門である大手門の近くに聳え立つ市天然記念物の「姥杉」は、三の丸の土塁上に立っている。

 水沢城の築城年代・築城者などは不明だが、現地の伝承では葛西氏家臣の蜂谷氏・佐々木氏・柏山氏など諸説があげられている。

 豊臣秀吉による“奥州仕置”により葛西氏は滅亡し、豊臣大名の木村吉清を経て伊達政宗の領有となる。
当初は代官が置かれていたものの、天正19年(1591年)、のちの仙台藩の所領となり、伊達家一門の白石宗実が1万5千石で入城した。

   その後、柴田氏、石母田大膳(宗頼)らが代官を務めていたが、1629(寛永6)年、政宗の従兄弟に当たる留守宗利が金ヶ崎城から入城し、以後は宗利を祖とする「水沢伊達家」1万6千石としての支配が幕末まで続いた。

 なお、最後の当主である伊達(留守)邦寧は家中をあげて北海道札幌郡(現在の北海道札幌市豊平区にある平岸地区。)に移住した。

 幕藩体制下の大名統治は、原則として一国一城令を基本とし、家臣は藩の城下に居住する建前であったが、奥州仙台藩では21ヶ所の「要害」と称する実質的には支城と異ならない施設を領内に構え、各重臣をその要害に置き、付属する領地を知行として与え支配させていた。城は本城の仙台城のほかに、白石城の片倉氏のみが拝領していた。 

市役所前にある武家屋敷
母屋玄関には、武家住宅には少ない唐破風がつく八幡家
現在も住まわれているために内部は非公開です

武家屋敷・八幡家の塀と堀の跡
市役所前面の堀跡と思われる池(入口の南側) 市役所前面の堀跡と思われる池(入口の北側)
市役所南側に残る武家住宅・内田家
後藤新平・生家(旧宅)
母屋は18世紀中頃に建築されたもの

後藤新平 略歴 1857(安政4)年〜1929(昭和4)年

 ■ 江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤新平の
  大叔父にあたる
 ■ 明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家
 ■ 台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、
  内務大臣、外務大臣、東京市(現・東京都)第7代市長、
  ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの
  NHK)初代総裁、拓殖大学第3代学長。
 ■ 計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された
  が、帝國主義日本の有能な植民地経営者で都市
  設計者でもある

 ◎ 最後の言葉
  「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
  者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」 

現存冠木門脇の残存土塁上にたつ姥杉

縄張図
(現地案内解説板より)

登城アクセス
 車  : 東北道水沢IC〜右折合流/国道4号線〜右折/白井坂〜国道4号線〜
  左折/道下〜県道・市道〜奥州市役所

駐車場 : 奥州市役所の無料駐車場を利用


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