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ザ・登城

東北地方

陸奥(岩手県)

豊臣の大軍によく耐えた九戸氏の堅城

九戸城[くのへじょう] 別称=福岡城・宮野城  (平山城)  【所在地】 二戸市福岡城の内

築城時期:  明応年間(1492〜1501) 築城者:  九戸光政

くのへ じょう 本丸南面の土塁と二の丸との間の堀

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・空堀・堀 》
 九戸城は、城の東・北・西をそれぞれ猫淵川、白鳥川、馬渕川の三つの河川に囲まれた一帯に位置する天然の要害であった。

 九戸城跡には建造物は何一つ残っていないが、本丸・二の丸・石沢館・若狭館・松の丸が往時の面影を今に伝え、国の史跡に指定されている。
 石垣の発達の遅れた東北の城の中で、九戸城の本丸周辺に残る石垣は、東北地方最古の石垣とされ、“九戸政実の乱”が平定されてから修築が施された際に、蒲生氏郷の指導によって築かれた野面積の古い様式の石垣である。

 本丸は高台の北西隅に位置し、背後には石垣、土塁、空堀が巡らされていて、東面の中央には、枡形をもった追手門が設けられている。
 二の丸は、本丸の東側と南側を包むように巡っている。その周囲には土居が築かれた痕跡が所々に残っている。南東には大手門跡が、北東には搦手門跡があり、二の丸から本丸の北側下方にかけて腰曲輪があった。
 三の丸は、本丸の西側にあったが、現在は住宅地となっている。石沢館と若狭館は後詰めの曲輪であった。松の丸は南部信直入城後の居館であったといわれている。

 二の丸跡の発掘調査では、首をはねられ無数の刀傷を負った女性を含む多くの人骨が出土し、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げの戦いが、こうした婦女子たちの断末魔の叫び声でおわっていることはあまり知られていない。


 現在の青森県南部と岩手県北部を支配していた南部氏は、領地を治めるにあたり、領内各地に一族の者を配し、本拠地を三戸城(14世紀の半ば以降、三戸南部氏が南部宗家として台頭してきた)に置いた。
 九戸城はその一族の九戸光政が明応年間(1492〜1501)に築いたと推定されている。この頃から九戸氏は、近隣豪族たちと積極的に婚姻関係を結び、勢力をつけていく。

 1582(天正10)に、三戸南部氏の当主・晴政が没すると、晴政の養子で新しく当主となった信直 と、九戸政実が対立。一時は収まったものの、政実は信直に反旗をひるがえした。
 自分の手には負えないとみた信直は豊臣秀吉に援軍を要請。秀吉の奥州再仕置軍6万の大軍に包囲された政実は降伏開城した。

 信直はこの軍功により蒲生氏郷が改修した九戸城を与えられ、城の名を福岡城と改めて居城とした。
しかし、この地が支配地の北に偏りすぎているため、新たに盛岡城の築城工事に着手。1633(寛永10)年、南部重直(信直の孫)が盛岡城に本拠を移すと、九戸城は廃城となった。

二の丸と松の丸・在府小路を隔てる堀跡
堀幅は約60mもあります。在府小路は武家屋敷跡です
枡形を伴った大手門跡を上から見る

大手門跡東側の水堀跡
広大な二の丸跡
広〜い二の丸は芝生となっていて、
プレハブの案内所や平面模型ももあります
二の丸の搦手門跡
下った先の堀を越えると石沢館跡になります
二の丸北東角より堀越しに石沢館跡を見る
本丸追手門橋上より二の丸との間の堀を見る(北側) 左画像の反対の南側部分
本丸南面の堀を見る(東→西) 本丸虎口跡
本丸東面の追手門枡形虎口を内側から見る 本丸跡
ほぼ100m四方の方形の曲輪です
本丸東面の石積み土塁(内側) 本丸の南側と東側の土塁は、腰巻石垣となっている
本丸と二の丸との間の石垣
外(左)側(二の丸側)は堀になっています
本丸と二の丸との間の堀を北側から見る

九戸城跡 俯瞰図
(二戸市教育委員会 生涯学習課 さま 提供)

上の図で判りづらい方は、コチラ をご覧ください

九戸城跡 航空写真
(二戸市教育委員会 生涯学習課 さま 提供)

九戸城跡 縄張図
(現地案内解説板より)

城兵皆殺しにあった九戸城
――“九戸政実の乱”の結末――

九戸の乱 の際の豊臣再仕置軍の陣場図


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 戦国末期の三戸南部氏の24代当主・晴政には男子がなく、一族で娘婿の田子(たつこ)信直を後継者に指名。ところが、その直後に晴政の実子・晴継が誕生したため、南部晴政の死後、南部氏宗家の跡目相続をめぐり、信直支持派と晴継擁護の九戸政実派が対立。しかし、南部晴継は13歳で謎の死を遂げ、結局、信直が南部氏宗家を継ぐことになった。

 そうしたごたごたが根底にあり、政実は、南部氏の惣領となった信直と対立の度を強めていた。そのような状況のときに、1590(天正18)年の豊臣秀吉による“小田原攻め”を迎えている。
 信直は小田原に参陣し、秀吉の「奥州仕置」の結果、信直より3日前に参陣した大浦(津軽)為信へ所領安堵した津軽4郡は失ったが、南部7郡(糠部・岩手・志波・稗貫・和賀・閉伊・鹿角)の各地を与えられた。
 しかし、「奥州仕置」の軍勢が撤退するとともに、“葛西・大崎一揆”と同じように、信直の新たに得た地で、“稗貫・和賀一揆”の蜂起が起こったのである。

 こうした争乱状況を、惣領家の南部氏を倒す好機とみた九戸政実は、混乱に乗じてついに、翌1591(天正19)年3月挙兵し、まず、櫛引・久慈・七戸氏らを誘い、さらに反乱の輪を広げようと諸氏に味方になるよう誘いかけ、味方しないとわかると、それらの城に攻撃をしかけていった。
 事態が思わぬ方向に進んでいることに驚いた信直は、本拠の三戸城を出て一戸(岩手県一戸町)に布陣し、防戦に努めた。しかし、日を追って政実らの勢力が強大化していったため、自分だけの力でこの反乱を鎮圧することはむずかしいと判断し、子の利直と重臣・北信愛の二人を上洛させ、秀吉に対し援軍を要請することにした。

 秀吉は、まだ決着のついていない“葛西・大崎一揆”のほうは伊達政宗にまかせ、“九戸政実の乱”討伐の大将として蒲生氏郷を任命し、乱の鎮圧に乗り出した。
 3万といわれる大軍を率いて7月24日、黒川(会津若松)を出発した氏郷は、途中、浅野長政の軍と合流し、各所で一揆軍を鎮撫。反乱軍の各城を撃破し九戸城が包囲されたのは9月2日だった。

 九戸城の城兵は5,000ほど、それに対する豊臣方の軍勢は、諸説あるが6万ともいわれている。前述した蒲生氏郷・浅野長政の本隊だけでなく、堀尾吉晴や徳川家康の将・井伊直政に、大谷吉継配下として、小野寺義道・戸沢盛安・秋田実季ら出羽の諸将も加わり、津軽為信・松前慶広らも動員されていた。、このとき、松前慶広はアイヌの人々を従軍させ、その毒矢を武器として使用したといわれている。
 兵糧の乏しかった豊臣軍は、篭城戦を長引かせるわけにはいかず、9月4日、九戸氏の菩提寺の住職薩天和尚の仲介で、城兵の助命と政実の上洛、謝罪を条件に開城を勧告。抗しきれないことを悟った政実らは剃髪して城を出た。

 しかし、約束は反古にされ、豊臣勢は九戸城に総攻撃をかけた。不意を衝かれた城方は混乱に陥り、城はあっけなく落ちた。城兵のみならず、城に逃げ込んでいた婦女子まで、二の丸に追いこめられ、火をかけられ切り捨てられた。落城の炎の中で、皆殺しという地獄絵巻さながらの光景が現出した。

 いっぽう、城を出た政実ら、おもだった者150名は奥羽鎮圧軍の総大将である豊臣(三好)秀次を三迫(宮城県栗駒町)に訪ねるが、同地で捕らえられ、斬首されてしまう。つまり、開城勧告は謀略による騙し討ちであったのだ。


 なお、九戸村の総鎮守で、九戸氏代々の祈願所であった九戸神社(九戸郡九戸村・長興寺)から南へ500mほどの農道のはずれには、三迫で処刑された政実の首級をひそかに運び、葬ったという「九戸政実の首塚」が佇んでいるという。

登城アクセス
 車  : 八戸道一戸IC〜左折/国道4号線〜右折/中曽根〜県道24号線
  〜右折/落久保〜市道〜左折/二戸郵便局手前〜

駐車場 : 九戸城の駐車スペースを利用


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