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ザ・登城

東北地方

陸奥(青森県)

“九戸政実の乱”で滅ぼされた南部七戸氏の居城

七戸城[しちのへじょう] 別称=柏葉城  (平山城)  【所在地】 上北郡七戸町七戸

 築城時期:  鎌倉時代末期・1335(建武2)年  築城者:  工藤右近将監・南部政長

しちのへ じょう 二の丸と北館との間のL型水濠

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・水濠・空堀 》
 七戸城は、七戸町中心部の西側、七戸川支流の作田川の左岸、標高約40mの丘陵に立地している。複数の独立性を保った郭が密集した形式の群郭式となっている。
七戸城は北館、本城(本丸と二の丸)、下館、西館、角館、宝泉館、南外郭、西外郭、貝ノ口郭、北西外郭等の郭から構成されている。他に、少し離れたところに矢館という出城が控えている。

 現在、柏葉公園として親しまれている部分は中世の本丸(本城)で、江戸時代には本丸を二つに区切って本丸と二の丸に別けて使用していた。また、城の中心は、この本城ではなく、北館であることが発掘調査などの結果から わかってきた。

 七戸城の城門が青岩寺(七戸町字町)山門として移築され利用されています。


 七戸城は、南北朝時代に北畠氏家臣の工藤右近将監が蝦夷館を修築し居館を構えたのが始まりとされている。

 1393(明徳4)年、根城南部氏(八戸氏、後の遠野南部氏)第8代南部(八戸)政光が七戸に隠居し、その子・政慶が七戸氏を名乗り居城としたという。
 その後代々七戸氏が居城としてきたが、1591(天正19)年の“九戸政実の乱”に際し、七戸家国は九戸方に荷担し、豊臣秀吉の奥州仕置軍により滅亡されてしまった。

 江戸時代の1664(寛文4)年には城内に代官所が置かれた。
 盛岡藩5代藩主南部行信は弟の政信に5千石を分地し、寄合旗本として別家を立てる。

 1819(文政2)年、政信から5代後の南部信隣(のぶちか)が、盛岡藩11代藩主南部利敬から蔵米6千石を加増され、合わせて1万1千石の定府無城主格として初代新田藩主となって諸侯に列した。
 2代南部信誉(のぶのり)の時に北方警備の功により城主格となるが築城には至らなかった。

 3代南部信民の時に奥羽越列藩同盟に参加して“戊辰戦争”で敗北し、信民は隠居する。
 明治2年(1869)、4代南部信方が七戸にあった古城を修築し、藩庁を設置し七戸藩が成立した。七戸藩の呼称はこのときのものであり、基本的には、盛岡藩宗家から蔵米支給を受ける新田藩であった。

柏葉公園入口にある城址碑 本丸跡に建つ城址碑
二の丸に通じる柏葉公園への出入口 二の丸と北館の間のL型水濠
二の丸と北館の間のL型水濠 北館にある20分の1の北館の模型
本城下の姫塚
昔、七戸城のお姫様が、身分の卑しき者と恋仲になった
しかし、それが殿様に知れると、殿様は怒り、姫は殺害
されてしまったのだった。姫の屍は城の片隅の丘に埋
められたが姫の恨みは消えず、雨や風の夜には松の木
の間に、姫の美しい姿が現れるという 『青森の伝説』

二の丸東南角より東方向を遠望する
大手虎口部 玉泉館
玉泉館と西館との間の空堀 玉泉館から西館への虎口部の土橋と階段通路
西館の展望台跡 西館展望台跡より見た下館
現在、下館跡は幼稚園となっています

全体絵図
(現地案内板より)

郭の配置模型
(現地設置物より)

登城アクセス
 車  : 八戸道〜一戸IC〜右折〜国道4号線〜左折/笊田〜県道22号線〜
  左折/七戸郵便局〜七戸町役場

駐車場 : 柏葉公園の無料駐車場を利用


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