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ザ・登城

東北地方

陸奥(青森県)

発掘によって復元された中世の北の城館

浪岡城[なみおかじょう] 別称=浪岡御所・行丘城  (平 城)  【所在地】 青森市浪岡大字浪岡字岡田

 築城時期:  応仁の乱(1467〜1477)の頃  築城者:  北畠顕義

なみおか じょう 東館西角より西の北館を見る
ナナカマドと借景の岩木山が印象的でした

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・堀・井戸跡 》
 浪岡城は国史跡に指定された平城の中世城館であり、北東へと続く丘陵の南端に位置している。
城の南側の急峻な崖下は、正平津川が浪岡川に合流する地点であり、この合流点右岸に立地していて天然の堀と水源を兼ねていた。

 城域には外浜(陸奥湾西側)へ抜ける「豆坂街道」が走り、東に加茂神社、西に浪岡八幡宮を配置して城館の結界としている。
 城域は、東西1,200m、南北600mの敷地を持ち、幅10〜30mの二重堀で分けられた8つの館(郭)があった。各館は丘陵を掘切るように構築され、東から順に新館、東館、猿楽館、北館、内館、無名の館、西館、検校館となっている。
 東館は外郭的な存在で大手門の近くに置かれた。北館は中心近くに位置し、堀や土塁で囲まれていた。また、内館は本丸や主郭としての機能を備え、西館と検校館の南側に搦手門が存在した。

 浪岡城跡では昭和52年(1977)から発掘調査が進められ、中世城館の構造から生活までが解明されつつあり、大きな成果をあげている。
 近くには、浪岡城跡から発掘された遺物を展示する資料館「中世の館」があります。中世の館で、事前に知識を得たうえで浪岡城を探訪すれば、空堀や土塁だけが残る現況であっても、「北の御所」とも称された浪岡城のありし日の姿をイメージすることが出来ます。


 浪岡北畠氏は、北畠氏の庶流に当たる大身で、南北朝時代に陸奥の国司として下向した北畠顕家の子孫が、陸奥の津軽地方を支配したことから始まるといわれている。
 南北朝時代、北畠一族は足利尊氏打倒のため奥州を拠点に活動を続けていたが、時流には逆らえず、陸奥の一大勢力・南部氏もまた離脱したため。北畠顕成(顕家の子)は浪岡へと移った。
津軽の人々は北畠氏の居所を「浪岡御所」と敬称し、敗亡の貴族を温かく迎え入れたことから、北畠氏は北辺の地に安住の地をえたのである。

 北畠氏は、戦国下克上の時代に入っても浪岡城を拠点に、大浦氏や大光寺氏と津軽を三分するほどの勢力として生き残り続けたが、1562(永禄5)年、“川原御所の乱”で、一族の具信(とものぶ)に本家の北畠具運(ともかず)が殺害されると、急速に勢力を失った。

 その後、具運の子・北畠顕村が後を継いだが、戦国大名として独立を図る大浦(津軽)為信に攻め落とされ、陸奥の名族北畠氏を滅亡へ追い込み、浪岡城も廃城となった。

浪岡城跡の位置図
青森県全体の略図から
城址隣に建つ案内所
城址へは、建物と建物の間の切れ目の所を入ります
案内所脇の城址碑 城址に向かうと、公園の旧石碑があった
奥の突き当たりは猿楽館の城塁です
東館から猿楽館(左)と北館(右)との間の堀を見る 北館北東面の木橋と虎口
北館跡の通路部分 北館跡の内部
北館の推定復元模型 北館西面の虎口
西館の東南側の虎口
橋の接続部分が低くなっているのは、
一種の枡形なのだろうか
内館の虎口
城塁を斜めに登っていく坂虎口になっている
内館に残る明治15年建立の北畠古城碑 内館南側の虎口

配置図
(現地案内板より)

配置図2
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 東北道浪岡IC〜左折/県道13号線〜左折/浪岡〜市道
  〜左折/浪岡郵便局角〜

駐車場 : 浪岡城跡案内所脇の専用無料駐車場を利用


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