| 東北地方 |
| 陸奥(青森県) |
津軽為信が津軽を統一するまでの17年間、本拠とした
| 築城時期: 1336(建武3・延元元)年 | 築城者: 曾我太郎貞光・津軽(大浦)為信 |
本丸西側の虎口
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁・堀 》 | |
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津軽統一を成し遂げた、戦国乱世の具現者ともいえる津軽(大浦)為信の生涯を追うには、堀越城はぜひとも探訪したいスポットだ。
堀越城は、平川と大和沢川の合流点の南西500mに位置する平城で、本丸、二の丸、三の丸から構成され、本丸の周囲は約2mの土塁に囲まれ、堀もところどころに残されている。
本丸の周囲を二の丸が囲んでいたが、本丸の南側の堀はかなり幅広になっていたらしく、堀の中央部に中土塁の名残のような遺構を見ることができる。
旧態をとどめない部分も多いが、その姿は小領主の居館、もしくは戦国大名の支城クラス程度の規模でしかなく、津軽を統一するまでの17年間本拠とした津軽(大浦)為信の居城とは思われないほどコンパクトな城である。 津軽富士を仰ぐみちのくの名城弘前城には桜の季節を中心に多くの観光客が訪れるが、堀越城にまで足を伸ばす歴史ファンは僅かである。だが、なぜ津軽(大浦)為信・信枚父子が弘前築城に執念を燃やしたかを実感するためにも、ぜひとも、弘前城と堀越城をセットで探訪していただきたい。
(津軽といえば宿命のライバル南部のことが思い浮かぶ。江戸時代も津軽藩と南部藩は仲が悪く、南部侍による津軽藩主の暗殺未遂事件(檜山騒動)が起こっている。
1571(元亀2)年、大浦(津軽)為信は密かに堀越城に兵を集め、津軽郡代・石川高信(南部信直の父)が守る石川城(青森県弘前市)を急襲した。高信を自刃に追い込み、為信は南部家からの独立を歩みだした。
だが、内乱において容易に本丸まで攻め込まれる事態が発生したり、また。宿敵南部氏との関係からも堅固な城郭を築く必要があり、為信は、大坂城をはじめ、当時の最先端の城を自分の目で検分していたことで、一日も早く近世城郭を築きたかった。
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T字路の所の熊野神社鳥居
鳥居を潜り直進します。この辺りは三の丸になるのかも… |
一番奥の鳥居の脇にある土塁の残欠
現在は土饅頭のような形だが、虎口を形成していた ものの名残だろうか |
本丸西側虎口の北側の堀
登城時に水は無かったが、本来は水掘であるようです |
本丸の土塁
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発掘調査中だった本丸西側の虎口部分
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発掘調査中だった本丸の土塁部分
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秀吉夫妻二世と目される津軽為信夫婦の処世術と為信の意外な一面
陸奥北端の梟雄であり、「反逆の昇竜、極北にあり」と畏怖された津軽(大浦)為信の系譜は、曖昧模糊(あいまいもこ)としており、父親の名すら定かではない。もともと南部氏の一家臣にすぎなかったのだから、当然といえば当然である。 戦国時代、北奥羽の地を支配した南部氏に反逆して、二十六年にも及ぶ戦いの末に、津軽の地(青森県の西側)から南部氏を一掃したのが、後に津軽氏と名を改める大浦為信である。この北陸奥の英雄の意外な一面と、夫の華々しい活躍の影に隠れて知られていない、妻の阿保良(おうら・戌姫・お福とも呼ぶ)の内助の功を少し紹介します。 『津軽藩旧記伝類』は、阿保良を「いとど御仁心深く、御知謀も遠くおはしまして、為信公御国家を定められし時、よく内政を助け玉へり」と記す。
為信の幸運は、母の不幸から始まった。一説によると、母は下久慈(岩手県久慈市)の城主、久慈備前の後妻となって為信を産んだと伝承される。だが母は夫が死ぬと、家督を継いだ嫡子(先妻の子)に虐待され、家を出た。時に為信は14歳。母子は縁を頼って大浦城(弘前市五代)の城主・大浦為則のもとに身を寄せる。
しかし、阿保良が愛した夫は、太閤秀吉の若き日を彷彿させるほど“人誑(たら)しの名手”であり、奇才に富んでいた。為信は支城の堀越城から2キロ先の南部氏の拠点石川城を攻めて南部(石川)高信を討ち、津軽略奪の狼煙をあげる。
戦いに明け暮れる中、大浦城に鉄砲の玉が不足との急報が届く。狼狽する家臣を横目に阿保良はあわてず、侍女を集めて錫類の器物をことごとく持ってこさせ、自ら指揮して玉を作り、擂粉木で合薬を製して戦場に送った。このため、味方の士気は大いに上がったという。 秀吉の妻おねが、少年時代の加藤清正や福島正則の衣類の世話をし、台所飯を与え、秀吉の忠臣に育てた話は有名だが、阿保良にも似た逸話がある。彼女は城内に長屋を建て、夫と戦場に出向く桜田宇兵衛や折笠与七ら近習の息子たちを預かり、実の母親以上に面倒をみた。彼らは成長して津軽家を支える良き忠臣となる。
為信は戦に強く、人使いが上手なだけではなかった。情報戦略にも巧みであった。
為信が着手して信枚が完成させた津軽氏の主城・弘前城には、館神という守り神の社があった。この社は表向き稲荷社ということになっていたが、実はその稲荷様の後ろに厨子があり、「館神」はその中に安置されていた。だがその厨子は江戸時代ついに一度も開かれることがなく、この社は「開かずの宮」と呼ばれていた。明治になってその扉が開けられた。その中に何が入っていたか? なんと豊臣秀吉の木像が入っていたのだ。為信は津軽家を大名にしてくれた秀吉の恩を忘れないために、徳川幕府による改易の危険を顧みず城内に秀吉を祀っていたのである。 戦国乱世の申し子のように動乱期を駆け上った為信の、誰にも見せず甲冑奥深くに秘めた、津軽人の情義の深さに驚く他はない。
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| 登城アクセス | |
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車 : 東北道大鰐・弘前IC〜右折/国道7号線〜左折/堀越〜県道260号線 〜左折/門外〜鳥居えを潜り直進〜 駐車場 : 熊野神社の駐車スペースを利用 |
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