| 東北地方 |
| 羽後(秋田県) |
仙北地方に割拠した小野寺氏の盛衰を語る
| 築城時期: 1554(天文23)年 | 築城者: 小野寺輝道 |
模擬 天守閣
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| 遺 構 《 模擬/天守閣 遺構/曲輪・土塁・石段 》 | |
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横手市街北東の比高40mの丘陵上に、白亜の模擬天守が見える。この天守、東北地方初めての模擬天守として観光用に建てられたもので、今では、横手市の象徴としてすっかり風景に溶け込んでいる。
丘陵一帯は、横手公園として整備され、冬は「横手かまくら」の会場の一つとなり、天守を模した展望台からは、のびやかな横手川、はるかに鳥海山が一望できる。
横手城址のある朝倉山は奥羽山脈の支脈にあたり、東部の山塊とのあいだに深い沼地があり、山すその西から東南へと横手川が湾曲して流れていく。
仙北地方に割拠した小野寺氏が、関が原合戦後、配流となり、佐竹氏が入封してからは、久保田城の支城となる。元和の一国一城令では大館城(秋田県大館市)とともに破却をまぬかれ、秋田藩は三つの城をもつことが許された。 横手城直下の上野台(呼称/城南町)には、徳川家康の側近筆頭として辣腕をふるい、のちに将軍秀忠から配流され、失意のうちに生涯を閉じた本多正純の墓碑があります。
1601(慶長6)年、“関が原合戦”で西軍(石田三成方)とみなされた小野寺義道は、所領没収となり石見国に配流となり、横手は秋田藩佐竹氏の所領となる。佐竹義宣は朝倉城を改築して佐竹藩の支城とした。城代として伊達氏、須田氏が入り、1672(寛文12)年、城代として戸村義連が入り、戸村氏が8代にわたって明治まで在城した。
1868(慶応4)年、“戊辰戦争”では、早くに奥羽越烈藩同盟を脱して新政府側に与したため、奥羽越烈藩同盟の仙台藩・庄内藩の砲火を浴びて炎上し、落城した。
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本丸跡に通じる大手門跡の石段
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大手門跡へ通じるつづら折りの大手道
「七曲」の坂を上段より見下ろす |
本丸跡に建つ城址碑
碑は旧名の「朝倉城跡」になっています |
秋田神社社殿の建つ本丸跡
東西47m、南北77mの楕円形状で、天守はなく、 かつては城館が築かれていた |
本丸下の帯曲輪
横手高等学校に教員として勤務したことのある、 石坂洋次郎の文学碑がある |
二の丸東側の土塁 |
二の丸の武者溜り跡 |
二の丸跡に建つ模擬天守閣(東面)
三河岡崎城をモデルに1965(昭和40)年に建立したもので、 郷土資料館(展望台)となっている。三層4階建 |
天守4階からの南西方向の眺望
城址真下を横手川が蛇行しています |
天守4階より東南方向を見る
本丸跡や二の丸武者溜り跡が見えます |
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『本多上野介正純の墓
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本多上野介正純公の墓所は、横手城直下の『上野台(こうづけだい)』と呼称される“根岸の高台”の一画に、ひっそりと静かに眠っています。 元和8年(1622)年、失脚し横手に配流された正純は、寛永7年(1630)年、嫡男の正勝を先に亡くし(享年35歳)、千石の捨て扶持を宛がわれた幽閉状態に置かれ、失意のどん底のまま、その7年後の寛永14(1637)年3月10日、配所で静かに死去した。遺骸は横手市内・正平寺に葬られた。
正純公墓所には、秋田県横手市の「本多上野介正純公を学ぶ市民の会」や、「よみがえれ!宇都宮城市民の会」などの諸団体により、「本多上野介正純公終焉の地」の石碑が新造され、正純公への思いを託す「記載台」も設置、配流先で詠んだ“うめもどき”の歌にちなんだ“紅白一対のうめもどき”が植樹されるなど、綺麗に整備されています。
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ひっそり静まりかえった墓所への入り口
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うめもどきに見守られ眠る正純公墓碑
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策士ゆえに策におぼれ、切れすぎた家康の懐刀
本多正純(ほんだ まさずみ) 1565(永禄8)〜1637(寛永14) 後世、家康とは「君臣水魚の交わり」と評され、友達同然とまで言われた本多正信の長男として三河国に生まれた正純は、父と同様に史僚派の腹心として家康のもとで活躍する。 関が原の後、家康の側近には武功派から文治派が台頭してくる。1605年(慶長10)に秀忠が将軍に就任すると、正純は、江戸の秀忠付きの父正信と連携して、家康の駿府での大御所政治では側近の筆頭として辣腕をふるい、その権威と謀略的な性格には、藤堂高虎も恐れたという。
彼が特にその才能を発揮したのが、大坂の陣であり、発端となった『方広寺鐘銘事件』を金地院崇伝と共に画策し、冬の陣では豊臣家との和議にも交渉役として活躍している。この時、豊臣側の交渉役・常高院(淀殿の妹)に対して、 1612年(慶長17)、正信・正純親子は家康同意のもと、かつて、三河を二分した三河一向一揆後、家康のもとを出奔した正信が帰参する際に、取り成しの恩を受けた大久保忠世の子で、秀忠の信頼厚かった大久忠隣を、政敵として(豊臣家に好意的で、戦いにおいて徳川家の団結が図れないとする説もあり)失脚させる。 1616年(元和2)、家康・正信が相次いで没すると、正純は江戸の秀忠に仕えるが、幕政は酒井忠世・土井利勝・安藤重信ら秀忠の側近に委ねられていき、正純の活躍する場が減り、かつての駿府での二元政治もあって秀忠の信頼も薄らいでゆき、やがて、疎まれることとなっていく。
■ 19歳の時、家康の側近として召抱えられ、その才気から家康の寵愛を受ける
3年後の4月、将軍秀忠は日光に社参。そのおり、往路は宇都宮城に宿泊したが、復路は、予定を変更して宇都宮を通らずに江戸へ帰還してしまう。
加納殿とは、正純の替わりに宇都宮から下総古河に押し出された奥平忠昌の祖母であり、忠昌幼少とはいえ、その転封を無念に思い、さらに、加納殿の娘は、正信・正純親子に追放された大久保忠隣の嫡男・忠常の正室であったため、正純に対する恨み憎しみは積もりに積もっていた。
他に、日光社参の将軍宿泊中継地となるため、城の大改修を進めていた正純は、家康が本多家に付けた「根来足軽同心」組織に動員をかけるが、「公儀以外には従えない」と拒否され、怒った正純は勝手に彼らを殺してしまう。また、5倍近い加増を機に、無断で堺に鉄砲を作らせ密かに運び入れてしまった。正純にしてみれば、全て秀忠出向かえ、将軍警護の意味合いがあったことだろう。
同年8月、正純は、最上義俊(義光の嫡孫)の改易にともない、出羽山形に赴いたおり、突然に、老中の罷免と出羽由利郡5.5万石への移封という命を受けた。つまり、秀忠は、正純を江戸や国許から遠ざけたうえで、減封の処分を下したのである。
『日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく』
(本多正純 横手での詠句)
文官の父・正信は、石田三成同様、武功派から嫌われ、武功派から文治派への過渡期に損な役割を貫き通し、憎まれるからと加増を固辞して2.2万石の所領。
果たして、宇都宮15.5万石の大身となって3年弱での改易・・・奢りがありすぎたのか? 引き際判断の甘さなのか?
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| 登城アクセス | |
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車 : 秋田道横手IC〜合流/国道13号線〜右折/婦気〜国道13号線・国道 107号線〜左折/横手フルーツライン〜市道〜右折/横手病院の先〜直進・ 登山道〜 駐車場 : 横手城の専用無料駐車場を利用 |
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