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ザ・登城

東北地方

羽後(秋田県)

文献に記載のない謎の平安時代の城柵遺跡

払田柵[ほったのさく]   (城 柵)  【所在地】 大仙市払田仲谷地95および、美郷町本堂城回

築城時期:  801(延暦20)年頃 築城者:  朝廷(律令国家)

ほったの さく 外柵南門

 遺 構  《 復元/櫓門・材木塀  遺構/築地塀跡・材木塀跡・建物跡 》
 飛鳥や奈良に都がつくられ、古代国家がその支配体制を固めていった7世紀中頃〜9世紀頃、東北地方には、国の直接的支配がおよばない広大な地域が広がっていて、払田柵跡の「柵」とは、こうした状況にあった古代東北地方をその支配下に組み込むため、時の政府が設けた施設を表す言葉です。
 城柵には中央から派遣されていた役人が駐屯していたほか、国家に抵抗する蝦夷の人々に備えて、兵士も駐屯していて、役所と軍事の二つの機能を備えた施設であった。

 払田柵跡は、外柵と呼ばれる柵木で囲まれ(外柵線は約3.6キロ)ていて、その範囲は、約87,8ヘクタール、東京ドーム8個分にもおよぶ広大なものです。
払田柵を画する外柵は、出土例から、長辺30センチ程度、短編25センチ程度の杉の角材を密接して並べた材木塀で、その高さは3.6メートル程度であり、東西南北に門が設けられていた。

 外柵で囲まれた真山および、長森丘陵を囲む外郭線は、南側が幅約3m、高さ約3.6m前後と推定される築地、北側は材木塀でかこまれ、外柵と同じように、東西南北に門があり、所々に櫓のような施設を設けていた。
外柵南門と外郭南門は、幅約12mの大路(道路)で結ばれ、払田柵のメインストリートであったと考えられている。この大路を横切って流れる川があり、橋が架かっていたことが判明している。

 長森丘陵の外郭線内には政庁と、政庁東方建物群があり、政庁の北西に湧水があり、地元では古くから「ホイド清水」と呼ばれ、発掘調査の結果、古代にも井戸として利用されていたことがわかりました。 


 払田柵跡の最大の謎は、大規模な城柵なのに、当時の出来事を記した「続日本記」をはじめ、その他の古代の文献に記載が見当たらないことです。
このため、記載はあるが遺跡の所在地が確認されていない城柵や官衙(古代の役所)のどれかに当たるのではないかと、雄勝城説や山本郡衙説、河辺府説など古くから様々な説が出されましたが、未だ決着を見ていません。

 払田柵跡の城柵名は、遺跡の所在する字名と、昭和5年の発見後の発掘調査時の実態から命名されました。

 払田柵跡の創建は、発掘された材木塀を、樹木の年輪を利用して年代をはかる「年輪年代法」で測定した結果、多くが801年に伐採されたもので、創建はその頃であることが確定しています。
なお、終末は10世紀の後半と思われ、このおよそ150年の間にこの地域が律令国家の領域に組み込まれていったと考えられます。

県道50号線沿いの城址入り口 外柵南門を遠望する
外柵南門の内側
地上高3.6mの柵木塀には、往時、東西南北の四ヶ所
に八脚門が構えられていました

外柵南門を潜ったところから真山を見る
幅12mの大路から外郭南門跡および
政庁跡の長森(丘陵)を見る
大路途中の堀に架かる木橋
外郭南門跡
両脇には威厳を誇示するかのように石塁が積まれています
外郭南門跡の先、二つ目の門跡を過ぎると石段が
あります。その先より外柵南門方向に振り返る
石段を登り切ると第三の区画施設である板塀と門が
目の前に立ちはばかり、その先が政庁(跡)になります
政庁からやや離れた長森丘陵東側の建物群
政庁は儀礼的な場であり、実務的政務は
こちらで行なわれたと考えられている
政庁北門(跡)越しに北方を望む 総合案内所と後方に真山(丘陵)を見る
総合案内所内に展示してある500分の1の模型 城址の反対側にある秋田県教育庁払田柵跡調査
事務所および、秋田県埋蔵文化財センターの建物

登城アクセス
 車  : 秋田道大曲IC〜右折/国道105号線〜右折/山根IC〜国道105号線〜
  左折/和合IC〜国道13号線〜右折/丸子大橋手前〜県道50号線〜左折/
  南小学校の先〜右折/宝龍〜

駐車場 : 払田柵跡の専用無料駐車場を利用


「秋田県教育庁払田柵跡調査事務所」 HPへ

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