ザ・登城TOPへ
ザ・登城

東北地方

羽後(秋田県)

東北地方最北の日本海側に置かれた地方官庁の遺跡

秋田城[あきたじょう] 別称=出羽柵  (城 柵)  【所在地】 秋田市寺内地内

築城時期:  733(天平5)年 築城者:  畿内政権

あきた じょう 復元された外郭東門と築地塀

 遺 構  《 復元/城門・築地塀・大路・古代沼  遺構/土塁跡・井戸跡・建物跡 》
 秋田市に存在する佐竹氏の近世城郭は、その地名が久保田であった(秋田と改称されたのは明治4年のことである)ことから久保田城および久保田藩と呼称され、同じ秋田市内に存在する、こちらの秋田城は、古代大和朝廷によって築かれた城柵です。

 秋田城は、当時の東北の日本海側の政治、文化、軍事の中心として機能し、奈良時代には出羽国の政治をおこなう「国府」が置かれ、また、津軽(青森)・渡島(北海道)のほか、大陸の渤海国(中国東北部)など、対北方交易の拠点としても重要な役割を果していたと考えられている。

 秋田城は周囲550m四方を築地塀(基底幅2.1m、高さ3m)で囲まれ、重厚な土塀と瓦葺屋根の築地塀は、蝦夷と呼ばれていたこの地方の住民に律令政府の力を誇示するものであった。
 外郭築地塀に囲まれたほぼ中央に東西94m、南北77mの横長の一角があり、ここが秋田城の中心であった政庁跡である。

 平成6年から4年がかりで、発掘調査に基づいて外郭東門と築地塀の一部が復元されています。また。秋田城跡出土品収蔵庫には出土品の一部が展示されていて、夏期期間にはボランティアガイドが常駐しています。

 外郭東辺の外側に鵜ノ木地区と呼ばれる一帯があり、そこから建物跡や井戸跡、沼跡、さらに全国的に例を見ない古代の水洗式の厠跡が発見されている。鵜ノ木地区は「迎賓館」的空間であったとの説もあり、今もなお大きな謎に包まれています。
周辺の地形は、現在も平安時代と大きな変化がないことから貴重な遺構といえ、鵜ノ木地区は歴史公園として整備が進められている。


  秋田城は、朝廷が蝦夷に対する軍事的制圧や東北開拓の拠点として、733(天平5)年、高清水と呼ばれる丘陵上に遷された城柵で、当初は出羽柵(でわのさく)と呼ばれ、庄内地方(山形県)から秋田へ移った出羽柵は、やがて、780(天平宝字4)年ごろに秋田城と呼ばれるようになった。

 秋田地方の蝦夷は極めて頑強で、出羽の国司が国府の移転を願い出たり、鎮守府将軍が城を放棄したいと訴えることもあったが、かえって防御を強固にする必要性から、次官国司である出羽介が秋田城介(※下記に説明あり)として城に常置され、出羽北部の統治に当たることとなった。

 804(延暦23)年になると蝦夷の反抗が大きくなり、秋田城に置かれていた国府が移転し秋田郡に格下げになりました。その後も軍事的な役割は続けていた為、878(元慶2)の乱、939(天慶2)年の乱と二度の大きな蝦夷の攻撃を受けています。

 その後、1050年前後の“前九年の役”の影響で秋田城介が城に常在しなくなったため、それ以降、秋田城は衰退したと考えられています。

※ 秋田城介(あきたじょうのすけ)
 律令制において出羽国の秋田城を専管した国司であり、秋田城に置かれた出羽介であることから秋田城介と
 いわれるようになった。

鵜ノ木地区に平面表示されている掘立柱建物跡
後方に復元された古代沼と外郭東門が見えます
復元された古代沼
縄文時代以前に飛び砂によって川がせき止められて
出来たという自然の沼です
井戸跡 政庁跡
幅12mの大路越しに外郭東門、築地塀を見る 外郭東門の屋根瓦には軒先瓦が使用されていない
のが特徴で、先端には漆喰が詰められています
地形模型 外郭東門のあるところの道路反対側に
ある秋田城跡出土品収蔵庫

登城アクセス
 車  : 秋田道秋田南IC〜合流/国道13号線〜右折/茨島〜県道56号線〜
  左折/高清水公園〜高清水運動広場の隣

駐車場 : 秋田城跡出土品収蔵庫の無料駐車場を利用


「秋田城跡調査事務所」 HPへ

ザ・登城TOPページへ 東北地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  東北地方の城郭へ

北海道  ・ 青森県秋田県岩手県山形県宮城県福島県