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甲信越地方

信濃(長野県)

我は弓なり

信濃 福島正則館[ふくしままさのりやかた] (居 館)長野県上高井郡高山村高井堀の内196

 築城時期:  1619(元和5)年  築城者:  福島正則

ふくしままさのり やかた 館跡 西面

 遺構  《 遺構/土塁 》
 豊臣秀吉子飼いの猛将・福島正則の改易は、徳川幕府による豊臣系外様大名の取り潰し策の代表例として、よく歴史書などに登場する。
安芸・備前両国49万8千石強の大大名が改易後どうなったか?。戦国を駆け上がり生き抜いた正則の寂しい晩年を詳しくご存知のかたは少ないと思います。
 哀悼の念を抱いて訪問して参りました“正則ゆかりの地”をここに紹介させていただきます。

 福島正則の改易は、最初、陸奥国津軽郡4万7千石の遠地への移封が伝えられ、替わりに、陸奥弘前の津軽信枚を信濃川中島(越後村上との説もあり)に転封させる予定であったが、信枚正室の満天姫(徳川家康の異父弟・松平康元の娘/家康の養女として嫁ぐ)のコネ頼みの強い中央工作や、津軽藩・南部藩・久保田藩との三藩による軍事バランスなどを考慮して、この話は取りやめとなりました。

 正則が蟄居同然に改易された高井野の館跡は、東西57間(約104.5m)、南北40間(約72m)あり、往時には、四方に高土塁を築き、塁の外に空堀が巡らしてあったという。居館としては信濃高梨氏館とほぼ同様の規模であった。

 現在、館跡中央部には高井寺が建ち、本堂の東北隅に唯一の残存遺構である土塁の一部が残されている。
 また、館跡北方約700mには、正則を火葬した“荼毘の地”が祀られています。
 正則はかねてより、高山村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとしたが、故あって位牌は領内雁田の岩松院に納められ、廟所も同寺境内に祀られている。

 正則の在館年数は僅か数年であったが、領内の検地を行ない、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤や西条新田の開拓など、民政に尽くした功績を大きく評価されている。


 徳川家康亡き後の1619(元和5)年、安芸広島城主の福島正則は、2代将軍秀忠より広島城無届け普請の咎により領地没収とされ、信濃高井郡2万石と越後魚沼郡2万5千石の計4万5千石の分散捨て扶持を与えられ、高井野の地の代官所跡地に居館を築いた。

 翌年、嗣子の福島忠勝が病死し、忠勝は高井郡小河原村(須坂市)の大乗寺に葬られましたが、その石塔には「正勝」と刻まれています。忠勝は元々正勝という名で、将軍秀忠より「忠」の字を賜って忠勝と名乗っていたのですが、このような不遇な扱いを受けた恨みも重なってか、「忠」の字を外して墓石としたのかもしれません。
 このとき正則は、理由は明かではないのですが越後国魚沼郡2万5千石を幕府へ返上しました。

 正則は僅か数年の間であるが民政に尽くし、1624(寛永元)年(同年の3代家光の将軍宣下の後の)7月13日、福島正則は高井野の館で没した。

 その後、跡を継いだ正則の子・正利は3,000石の旗本に身分を落とすこととなり、 正利は12年後の1637(寛永14)年に死没し、嗣子無く再び福島家は領地没収となる。
 それから45年後の1682(天和2)年、福島忠勝妾腹の福島正長の子正勝(福島正則の曾孫・同名の正則の子=別名忠勝とは別人)が、2千石の旗本として召し出されて、福島家の存続は叶った。

館跡の県道54号線沿いの火の見のところに
建つ朽ち果てた標柱
館跡に建つ高井寺への西側入口と、
そこに建つ案内解説板
所領没収後、館跡に建てられた高井寺(こうせいじ)本堂 本堂裏北東隅に残る唯一遺構の土塁
高さ約2m、長さ約19m
館跡から見た南方向の遠望
失意の晩年、正則が毎日見ていたであろう風景
館跡近くの南東の辻に残る高札場
正徳元(1711)年の建立なので、
正則の没(1624年)後の建造物です

福島正則 霊廟
岩松院 : 長野県上高井郡小布施町雁田

 仏教を深く信仰した正則は、岩松院を菩提寺と定め、海福寺の寺号をつけました。墓石の高さは2.5mの五輪塔、台石に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれています。
なお、岩松院は、葛飾北斎の晩年の天井画「八方睨み鳳凰画」のある寺としても有名です。
福島氏菩提寺の岩松院全景 本堂真裏の高台に建つ御霊屋
霊廟
なかに大五輪塔が安置されています
みたま屋
献花・焼香・合掌をして参りました

福島正則 荼毘(だび)の地

 1624(寛永元)年7月13日、堀之内館において、戦国の勇将・福島正則は享年64歳で波乱の生涯を閉じました。
遺骸は、幕府検史役の到着が遅れるなか、家老津田四郎兵衛の計らいで、高井野(現高山村堀之内)のこの地で荼毘(火葬)に付された。
幕府はこれを咎めて、残領の25,000石までも没収したそうです。
館跡手前(西方)の県道54号線沿いの案内標識 館跡北方の荼毘の地
荼毘の地に建つ供養塔 座して瞑想に耽っていたら落日を迎えてしまいました
我は弓なり
「我は弓なり、戦国の世では弓は重宝されるが、太平の世にあっては川中島の土蔵入り」

 情に厚く、家臣に愛され、熱血漢で、愚直なまでの勇猛さを誇った秀吉子飼いの戦国武将・福島正則。
減知転封を命じられた時、ふと、さびしげにもらした言葉です。

福島正則

福島正則 生誕地
愛知県海部郡美和町二ツ寺字屋敷

 生誕地近くには、福島正則の名前を冠した公立の「正則小学校」がありました。偶然見つけた時には、何故か嬉しくなってしまいました。
生誕地全景 生誕地の石碑

福島正則の菩提寺 菊泉院
生誕地近く(北へ約150m)にあり、位牌や各種資料が奉納されています
菊泉院 山門 境内に建つ五輪塔

戦に強く、酒豪だった 福島正則

■ 1561年(永禄4)、尾張国海東郡二ツ寺村(現・海部郡美和町)に生まれた。幼名は市松、父は市兵衛
  正信、母は秀吉の叔母(秀吉とは従兄弟)とも、正則が養子であったという説もあり真偽は不明
■ 12歳の頃、近江横山城主であった羽柴秀吉に仕え、初陣は、1578年(天正6)の播磨三木城攻めで
  あった
■ 1583年(天正11)の柴田勝家との“賎ケ岳の戦い”では、「七本槍」の筆頭として近江河内5千石を得
  る
■ のちに伊予今治11万石、1590年(天正18)の“小田原の役”では伊豆韮山城攻めでは先鋒を務めて
  攻略
■ “文禄の役”(朝鮮侵攻)では、渡海して戦功を上げたが、主な任務は伊予水軍を配下にしての海上兵
  站輸送であった その後、尾張清洲24万石の領主となる
■ 秀吉が没する(慶長3)と、加藤清正などの豊臣恩顧の武断派大名とともに、文治派石田三成との確執は
  激しくなり、徳川家康の養女を養嗣子正之の室として迎えるなど徳川家と接近し、1600年(慶長5)の
  “関が原の戦い”では左翼先陣として西軍宇喜多秀家隊と激闘を演じるなど、東軍勝利のキーポイント的
  働きをなす
■ 関が原の戦功により、安芸・備後2ケ国の太守となるが、戦後225万石から65万石となった豊臣秀頼
  への忠誠を誓っていたので徳川幕府から睨まれることも度々であった
■ 徳川家康が豊臣家潰しにかかった1614年(慶長19)の“大坂冬の陣”では幕府に警戒され、江戸留守
  居役を命じられ出陣を許されなかった
■ 1619年(元和5)、広島城修築を咎められ領地を没収され、越後魚沼・信濃川中島4万5千石に領地分
  散されて配流。翌年、嫡子忠勝死去に伴い2万5千石を幕府に返上
□ 1624年(寛永元)7月13日、信濃高野井村(現・長野県上高井郡高山村)にて死す(享年64歳)。
  その遺体を幕府の検死到着前に火葬したこと(自刃説あり)を咎められ、残った領地も没収され、庶子の
  正利へは僅かにに3千石が与えられたに過ぎなかった。

 福島正則は、秀吉麾下筆頭の猛将であり、直情家かつ酒好きで失敗も多かったようだが、佐々成政の肥後改易後の一揆平定の命を受けて、その後始末や検地を行なったり、また、治水工事に長け、名古屋城下堀川を築いたことは有名であり、武辺だけの人物ではなかったことが窺え知れます。
家臣に対する愛情、心底の優しさ、子供っぽさの残る純な性格は家中からも慕われ、福島丹波、尾関石見、長尾隼人の三家老や、鬼玄蕃と呼ばれた大崎玄蕃、可児才蔵など優秀な家臣が多く、その軍勢は統制が取れ非常に強かったという。

 どうも、家康公に上手く利用された感が否めない正則ですが、数多い彼のエピソードの中から一つ紹介いたします。

◇◇ 監禁した近習 ◇◇

 ある近習が正則の怒りに触れて城内の牢に封じ込められ、家中の者達に食事を与えてはならぬと厳命を下した。
数日間がたち、さぞ飢えに苦しんでいるだろうと、正則がその近習の様子を見に行ったところ、全く衰弱した様子が見られない。
「だれぞ、わしの命を守らず、飯を与えたものがおるのか」と正則は大きな声で怒鳴った。

 すると、一人の茶坊主が正則の前に進み出てひれ伏し、
「食事を運んだのは私めでござります。昔、若かりし頃、罪を得て死罪を申し渡されそうになった折、かの者が助命嘆願をしてくれたお陰で一命を保てました。逆の立場になった今、その恩義に報えんがため、殿の言いつけを破りました。なにとぞ、かの者にかわり、私を成敗くださりませ。」

 話を聞き終わるやいなや、正則は涙を流しながら感動し、「すぐさま監禁した近習を解き放し、この坊主に手厚く褒美を取らせよ」と家臣に申し付け、静かに立ち去ったという。

登城アクセス
 車   : 上信越道小布施スマートIC〜左折〜右折/ 小布施橋東〜右折/中町
  南〜国道403号線〜左折/春木町〜左折/春木町南〜太田屋酒店の手前
  右側

駐車場 : なし


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