| 甲信越地方 |
| 信濃(長野県) |
武田信玄、撤退戦で痛恨の敗北「砥石崩れ」
信濃
| 築城時期: 不明 | 築城者: 村上義清? |
城址遠望
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・堀切・竪堀・土塁・石積・虎口 》 | |
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砥石城の最高部は、標高791mに位置し、城郭群の総延長は4キロメートル近くもある。
北に太郎山を背負い、東側は神川の断崖に臨み、東太郎山の支脈が南方に突き出た先端に築かれた要害堅固な中世の山城跡である。城跡からの眺望はすばらしく、上田平と真田盆地の両方に睨みが利く、抜群の立地にあります。
よく知られるように、砥石城は「枡形城」「本城」「砥石城」(+「米山城」を含む場合もある)の複合城郭群であり、本城を中心に北に桝形城、南に砥石城、南西に米山城を配した構成となっています。
本城は全域で最も広大な郭で、南北に連なる数段の郭から構成されています。本城の背後を固める枡形城は、最高所に位置し、狼煙台や後方指揮所として機能したことと思われ、北東の真田郷が一望できます。砥石城は本城の南に連絡しており、ここからは南の上田盆地が手にとるようにに見渡せます。少し離れた別峰に置かれた米山城は砥石城の横腹を護る出城的な使命を持つ城砦です。また、東側の山麓斜面の谷津部には、内小屋地区が展開しており、平素に居館が置かれたと思われる。
砥石城跡への登山アプローチには、大別すると次の三つのルートがあります。
佐久から小県、北信濃への侵攻を開始した武田信玄と、村上義清の対立が激化し、1548(天文17)、“上田原合戦”で武田軍と村上軍が交戦、決着はつかなかったものの武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら宿将を討死させ、実質的に敗北した。
天文19年、小笠原長時の籠る林城(長野県松本市)を自落させて勢いづいた信玄は、村上義清が北信濃で高梨氏館の高梨政頼と対陣している隙を衝いて小県郡に侵攻し、砥石城攻撃を画策した。
翌年、武田の信濃先方衆である真田幸隆は、村上陣営への事前工作が功を奏し、信玄が落とせなかった砥石城を簡単に乗っ取ってしまい、砥石城は幸隆に預けられた。
1582(天正10)年に武田氏が滅亡、この地を領していた真田昌幸は、天正11年に上田城の築城を開始して本拠地を移すが、その後の第一次上田合戦(神川の戦い)や第二次上田合戦(関が原の本戦前の地方戦)において、砥石城は詰城として使用された。
“関が原の役”後、大坂方に与した昌幸の旧領は、徳川方についた昌幸嫡男の信幸(このとき信之に改名)に与えられ、砥石城も支城として存続していたものと思われるが、1622(元和8)年、信之の松代城転封に際して廃城となった。
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登り口
下部の登山コース案内図中の現在地のところ (南側の山麓)から登りました |
米山城(左へ10分)と砥石城(右へ15分)の間の鞍部の馬場跡 下からこの分岐点まで約15分です |
急坂を登って米山城の主郭へ
主郭に建つ「村上義清」の碑 |
主郭に建つ米山城の標柱と解説板
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米山城は三段の曲輪と、さらに腰郭で構成され、実質的には砥石城群からは 半独立の「出城」と見るべきかもしれません |
前述の馬場跡に戻り、さらに長く急峻な木段を登って、砥石城に向かいます |
砥石城への岩場。スゲ〜急です
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小さな曲輪の砥石城山頂部
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砥石城山頂部より見た南方向
天候急変で、ガスってきました |
砥石城から本城へ至る通路
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もう一方の登り口である大手口、陽泰寺などに至る通路
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砥石城から本城に向かう幅広の平尾根
案内板には「大手口」とある |
本城の削平地群と高い切岸
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本城の二郭から主郭への虎口
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斜め上の虎口部に、僅かではあるが残る石積み
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南北に数段に連なる削平した郭を持つ本城の本郭部
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枯葉の絨毯と化している本城各郭
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本城主郭背後の大堀切
「から堀跡」と表示されています |
城内に植えられていた名残とみられている、矢柄に用いる矢竹 |
枡形城に向かう尾根上の通路
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枡形城の名称の由来となった枡形形状を上から見る
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北端に位置する枡形城
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最北端部の枡形城物見台との間の堀切と、その物見台
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物見台より北東の真田本城を俯瞰する
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砥石・米山城登山コース案内図
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| 登城アクセス | |
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車 : 上信越道上田菅平IC〜合流/国道144号線〜左折/伊勢山郵便局 入口〜市道〜現地案内標識に従って下さい〜 駐車場 : 城址登り口の専用無料駐車場を利用 |
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