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ザ・登城

甲信越地方

信濃(長野県)

きたるべき甲越決戦に備え、信玄が川中島に築いた海津城

信濃 松代城[まつしろじょう] 別称=海津城・待城・松城 (平 城) 【所在地】 長野県長野市松代町松代

 築城時期:  1560(永禄3)年  築城者:  武田信玄

まつしろ じょう 復元 太鼓門と前橋

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・堀・櫓台  復元/城門・木橋・井戸 》
 松代城は北西の背後を流れる千曲川を天然の堀とし、三方を山に囲まれた平地に築かれた輪郭式の平城です。 

 甲州流築城術の特徴を強く持つ武田氏築城の代表的な城の一つであり、本丸を三方から二の丸が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出および、三日月堀を有する。
 江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、川と城の間には百間堀・新堀が造られているが、往時の幅の広い外堀の水源は千曲川の流れを利用していたと考えられ、平地にありながら要害性の強い選地であった。しかし、その分千曲川が氾濫した際には甚大な被害をたびたび被っている。

 本丸は総石垣造りで、北西隅部には、天守閣に相当する戌亥隅櫓が築かれていた櫓台の石垣が最も古い様相を呈して残存している。
 二の丸以下の曲輪は虎口周辺のみ石垣を用い、ほとんどの部分は土塁を巡らしている。本丸・二の丸・三の丸の範囲は200m四方ほどで、そのうち堀の占める割合も大きい。

 真田氏10万石の居城としてはやや小振りであり、中世以来の城郭を踏襲・改修して使用されてきたのは、城郭の増修築が厳しかった時代の外様大名としての真田氏の立場と、地形上城域の極端な拡張が難しかったためであろう。
 度重なる洪水や火災から、本丸の御殿を南西の「花の丸」に移した造営が唯一の城の拡張ともいえるでしょう。

 平成7年度から始まった松代城跡の整備工事では、享保の大火(享保2/1717年)後の再建から廃城までの姿の再現を基本として、太鼓門・北不明門の復元、石垣の修復、土塁・堀等の整備を実施しており、江戸末期の城郭空間を甦らせている。

 戌亥櫓台の上からの眺望は見事で、戦国最強とされる甲越両軍が激突した第四回“川中島合戦”に際して、上杉謙信が陣を敷いたと伝わる妻女山が目と鼻の先に臨め、両軍が激闘を交えた八幡原は指呼の間にあり、この城が壮絶な戦いの舞台であったことが実感でき、大いなる歴史浪漫に浸ることができる。
 長野市の千曲川流域一帯には、信玄・謙信の両雄が五度も干戈を交えた歴史舞台が数多く残されています。
 戦国最大の死闘となった“第四次の決戦川中島”についてはコチラをご覧ください。

 松代城下には、「真田宝物館」や国史跡の「真田邸」、貴重な遺構である藩校の「松代藩文武学校」および、各「武家屋敷」などが点在し、これらを訪ねて城下町を散策するのも大いに愉しい。
 また、松代といえば幕末の先覚者・佐久間象山の故郷であり、象山の旧邸跡の隣には象山を祀った神社と、象山記念館がある。


 戦国時代には「海津城」と呼ばれた松代城は、その築城年代は定かではないが、この地の在地土豪である清野氏の館を武田氏が大改修したとされる。

 『甲陽軍艦』によれば、海津城は1553(天文22)年、山本勘助の縄張りにより築城したとされるが真偽の程は定かでない。
別説によれば、1560(永禄3)年、北信濃に進出した武田信玄が、きたるべき上杉謙信との決戦に備えて築城したとされ、川中島の押さえとして海津城に高坂(弾正忠)昌信(春日虎綱)が守将として配置された。
 1561(永禄4)年の第四次“川中島の戦い”に際し、海津城は、覇権目指す両雄が激突した乾坤一擲の戦いの舞台となった。

 1582(天正10)年、信玄の跡を継いだ武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、信長配下の森長可が海津城主となった。
 同年6月2日の“本能寺の変”での信長横死により、長可は海津城を放棄し、上杉景勝の持ち城となり、村上国清(山浦景国)、上条政繁、須田満親らが城代を務めた。
 1598(慶長3)年、上杉景勝の会津移封により、この地方は豊臣秀吉の蔵入地となり田丸直昌が海津城主に封ぜられた。

 1600(慶長5)年の“関が原の合戦”前に、徳川家康の命で田丸直昌は美濃岩村城に移り、替わって森忠政が13.7万石で入封して、「待城」と改名された。
 慶長8年、森忠政は関が原の戦功により美作津山へ転封となり、替わって、徳川家康の6男・松平忠輝が城主に任じられ、花井吉成が城代として置かれ、「松城」と改称された。
 1616(元和2)年、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ、その後、忠輝の甥の松平忠昌(元和5年に越後高田へ移り)、交替に酒井忠勝が城主となる。

 1622(元和8)年、酒井忠勝が出羽庄内(山形県鶴岡市)に移り、真田信之が信濃上田より13.5万石を領して入封し、以後明治まで真田氏は10代続いてこの地を治めた。
 なお、2代信政の時に上野沼田領3万5千石を分知し、宗家真田氏の石高は10万石として明治に至る。また、1711(正徳元)年、真田氏3代藩主幸道の時に幕命により「松代城」と改称された。

南側入口越しにみた城址前景 復元された二の丸南門から本丸太鼓門を望む
二の丸土塁上に揚がる軍旗 二の丸南門外側のの丸馬出しの土塁内側部分を見る
下の平面図中のの部分
復元された、手前から前橋、橋詰門、および太鼓門
橋は災害などで四回以上の架け直しがされているそうです
前橋の上から東側の内堀を見る
内堀の西端から太鼓門前橋越しに東方向を見る 本丸 太鼓門
枡形一の門の太鼓門は二層の櫓門形式です
実質的には天守に相当する本丸戌亥櫓の櫓台石垣 本丸内に建つ「海津城址之碑」
戌亥櫓台上から見た本丸南方の太鼓門方向 戌亥櫓台上から二の丸越しに北々西方向を遠望する

戌亥櫓台から謙信が布陣したといわれている妻女山を見る
北不明門
本丸の裏口(搦手)に位置する櫓門(一の門)で、
石垣に渡らず独立した中世的様相の構造です
北不明門二ノ門の高麗門
奥が北不明門一ノ門の櫓門です
18世紀前半までは千曲川の河川敷に接していた
ことから「水ノ手御門」とも呼ばれていました
二の丸北西面の埋門(内側)
本丸以外の曲輪は、基本的に堀と土塁によって囲まれて
いて、この土塁の中のトンネル状の埋門は、人一人が
やっと通れる程度の狭さです
北面西寄りの埋門、戌亥櫓台を見る 戌亥櫓台石垣を北(裏)側より見る
北不明門、井戸(館)を北(裏)側から見る 城址北側(西寄り)の千曲川の旧河道筋にあたる百間堀跡
城址北側(東寄り)の千曲川河道にあたる新堀 本丸から二の丸へ至る東不明門跡と東不明門前橋
櫓門が建てられていた東不明門は平時には閉じられていた

二の丸東側の石場門
石場門の外(東)側、丸馬出しがあった場所付近の外堀
跡の様子。丸馬出しは二ヶ所ありましたが、その痕跡は
ほとんどありません
長野電鉄の線路沿いに伸びる外堀の痕跡 池田万寿夫美術館の入口付近に池となって僅かに残る
三の堀。この位置は三の丸の大御門付近となります

松代城跡平面図
(現地案内板のものを切取加筆)

江戸時代末期の松代城のイメージ図
(現地案内板のものを切取加工)

■ 松代城めぐり−1 (二の丸〜本丸〜百間堀跡〜新堀〜外堀〜三の堀)
■  真田氏関連施設めぐり (新御殿〜藩校「文武学校」〜武家屋敷)

登城アクセス
 車  : 上信越道長野IC〜左折/長野インター〜右折/長野インタ−南〜左折/
  上高相〜国道403号線〜左折/突き当たり〜右折/松代郵便局手前〜左折/
  松代駅手前〜右折/池田満寿夫美術館〜

駐車場 : 池田満寿夫美術館の無料駐車場を利用


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