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甲信越地方

越後(新潟県本州部)

百三十二年ぶりに甦り、揚北を睥睨[へいげい]する三匹の鯱

新発田城[しばたじょう] 別称=あやめ城、浮舟城 (平 城) 【所在地】 新潟県新発田市大手町六丁目

 築城時期:  不明  築城者:  新発田氏

新発田城の公開期間は、4月1日から11月30日までです。

しばた じょう 甦った 三階櫓
見る角度により趣を変える三匹の鯱と、情緒を醸しだす海鼠壁
平成16年に復元

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・水濠・大名庭園  現存/本丸表門・足軽長屋
  復元/三階櫓・辰巳櫓  移築/旧二の丸隅櫓・武家屋敷 》
 近世新発田城の構え(縄張り)は、本丸を二の丸、新発田氏時代の古丸が取り囲み、南に三の丸を突き出し、その南端五十公野(いじみの)方向に大手門を開いた南北に長いひょうたん状をなした変形の輪郭・梯郭併用型の平城である。
当時は、南西部一帯に城下町がつくられており、北・東・西の三方が湿田や湿地で自然の要害となっていた。

 この城には天守閣がなく、本丸西端に位置する三階櫓がその役目を果たした。 この三階櫓は棟が丁字形になっており、三つの入母屋に三匹の鯱をいただく全国唯一のものである。
 また、三階櫓や旧二の丸隅櫓の城壁には冬季の積雪への対策から、建物の腰まわり部分に平らな瓦を張り詰めてそこに漆喰で蒲鉾形の目地をつけた、耐水性が高い海鼠壁(なまこかべ)が施されているのが特色である。

 本丸の三階櫓から鉄砲櫓(現在はここに旧二の丸隅櫓を移築)、辰巳櫓の間は今も見られる完全な石垣であったが、本丸の北・東面や二の丸、三の丸の大部分は土居で囲まれていた。この石垣の築き方は美観を重視した「切込ハギ」と呼ばれるものであり、石の表面がていねいに整形してあり、石と石の間に隙間を残さないように積み上げられている。石材はすべて五十公野の古寺に産する粗粒玄武岩が使われています。

 明治5年までは本丸・二の丸・三の丸あわせて、櫓が11棟、主な門が5棟あったが、表門と旧二の丸隅櫓のみ残し、新政府の命令で取り壊された。堀や土居も崩して埋め立てられ、本丸石垣と堀の約半分、土橋門付近の土居のみが城のおもかげを残す遺構となっている。

 昭和28年から、本丸の大部分と二の丸の半分近くが陸上自衛隊駐屯地となっているが、平成16年、溝口秀勝入封400年(平成10年)記念事業として、三階櫓と堀部安兵衛の運命を決めたといわれている辰巳櫓が復元された。


 最初に城が築かれた時期は不明だが、現在の新発田城二の丸の古丸と呼ばれる場所には、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏代々の居館があった。

 1578(天正6)年に上杉謙信が病没した後、その跡目を巡って喜平次景勝と三郎景虎との間で争われた“御館の乱”は、三郎景虎の自刃で一応の終焉を迎えたが、その後も越後各地で反景勝の戦闘は続いていた。
“御館の乱”戦後の論功行賞に対する上杉家中の不満は大きく、兄・長敦の病没により新発田城主となった新発田重家は、天正9年、上杉景勝に対して反乱を起こし(「新発田重家の乱」※下欄を参照)、足掛け7年間の抗争の末、1587(天正15)年、重家の壮絶な自害とともに落城・終結した。

 1598(慶長3)年、秀吉の命による上杉景勝の会津移封に替えて、越後春日山城に入った堀秀治の与力として、溝口秀勝が加賀大聖寺城(石川県加賀市)より6万石で入る。
 入封した秀勝は、とりあえず五十公野に館を設けてそこに住み、新発田重家時代の古丸を取り込んで慶長7年から本格的築城にとりかかり、秀勝入封から56年後の溝口氏3代宣直の1654(承応3)年に一応完成した。

 慶長5年の“関が原の戦い”が開始されると、溝口秀勝は徳川方に忠誠を誓ったが、会津へ移された上杉景勝は西軍石田方に与し、天下大乱のどさくさに紛れて、越後にとどまり帰農した旧臣たちを蜂起させ、旧領である越後を回復しようと策謀する。
秀勝は上杉遺民一騎に苦しめられたものの、鎮圧に成功し、関が原合戦後、無事、所領を安堵された。その後、堀家(春日山城)、村上家(村上城)とも改易となっていくが、新発田の溝口家は一家支配のまま無事に明治に至る。 

 その後、1668(寛文8)年には三の丸から出火し、ほぼ全城が焼失し、翌寛文9年には大地震により石垣崩壊があったが、順次再建され、4代重雄の代にはほぼ全てが再建され、以後、溝口氏は外様ながら一度も転封されることなく、溝口氏の通算12代にわたる治世となって明治を迎える(11代直溥の代になって、10万石への高直しが幕府に認められた)。

 戊辰戦争が勃発すると、越後では、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との間で激戦が展開された(長岡城のページを参照)。
やむなく加盟はしたが、尊王の志を貫くために消極的な新発田藩の態度に、疑念を持った同盟軍は、12代藩主・直正を人質に取った。その後領民はこれを阻止したが、城下が同盟軍に包囲されたため、やむを得ず藩兵を出兵させた。
 明治元年7月、海路より新政府軍を領内に迎え入れて同盟軍を越後より駆逐し、さらに新政府軍に合流し、先鋒となって軍を進め、庄内、米沢、会津などの軍と戦った。

水濠に映える三階櫓
左端は自衛隊敷地の塀です
三匹の鯱(しゃち)をアップで!
棟がT字型になっていて、3個の入母屋に
3個の鯱を配した全国唯一のものである
旧二の丸隅櫓
ここ本丸南西角の鉄砲櫓跡へ、昭和34〜35年
二の丸北部にあった乾櫓が解体移築された
(大火後の1668/寛文8年の再建)

あえて、モノクロ調にしてみました
濠越しに切り込みハギの整然とした石垣上に建つ
旧二の丸隅櫓を見る

濠伝いに歩くと、やがて三階櫓が迎えてくれ
堪らないアングルです
本丸土橋門跡の土居
画像欄外の右手前には本丸表門が、右奥に鉄砲櫓
(現/二の丸隅櫓)があり、枡形空間を構成する
本丸表門(現存)
1732(享保17)年に再建された櫓門です
二階正面には石落しがある
辰巳櫓
二層ながら存在感があります
平成16年に三階櫓と一緒に復元です
本丸に建つ藩祖/溝口伯耆守(ほうきのかみ)秀勝の銅像
往時、城下の人々は殿様に畏れ多いということで、「箒」
のことをホウキと言わずに「ナデ」と呼んでいたそうです
東(手前)から、
辰巳櫓・本丸表門・旧二の丸隅櫓の3ショットです!

アヤメの季節には綺麗な花が濠端を埋めるそうです
こんどは本丸内側から、本丸表門、辰巳櫓を望みます。
表門の海鼠壁が綺麗です
本丸の大部分は自衛隊敷地になっています。以前よりは
割譲されて立ち入れる範囲が広がったそうです
辰巳櫓の石落し
真新しい白壁が綺麗です
辰巳櫓の屋根裏の小屋梁
手斧(ちょうな)掛けの伝統工法により復元しています
辰巳櫓上棟時の棟札
上棟式は平成15年4月19日に執り行われました
表門内部に置かれている三階櫓の模型
30分の1のスケールです
旧二の丸隅櫓の内部
殺風景ですが、迫りくる緊張感を感じるのは
ミドモだけなのか?!
表門(櫓門2階)内部の様子
連子格子から差し込む陽光、好きな空間です!
忠臣蔵で知られる堀部安兵衛
藩祖・溝口秀勝の曾孫にあたり、
数奇な運命を辿っています
二の丸西側部分の様子
広〜い芝生広場となっています
自衛隊駐屯地の正門付近の建物にも一対の鯱が!…
 新発田城の天守代用である、三匹の鯱をいただく変則三階櫓は、本丸跡のほとんどを占める自衛隊の敷地内に建ち、すぐ裏手に自衛隊施設がある関係上、一定区域を立ち入り禁止とする協定のもとに復元しているのと、辰巳櫓も含めて、建築基準法の適用外となる伝統工法を採用した復元であることから、残念ながら三階櫓には入ることが出来ません(あらかじめ自衛隊新発田駐屯地に見学申請をして、許可を得れば敷地内からの外観見学だけは可能です)。

 そのかわり、本丸南面に三基連立して揃い踏みする、復元された辰巳櫓と、重文で現在する二基の本丸表門、旧二の丸隅櫓は中を見学することが出来ます。
真新しいヒノキの香り沸き立つ辰巳櫓と、風雪に耐え抜き黒光りする現存の櫓・門との対比する空間美を満喫できます。

 近世新発田城の初代藩主溝口秀勝の曾孫にあたる中山安兵衛は、父・弥次右衛門が辰巳櫓失火の責任を負って浪人となり、ほどなく病没してしまい、出生直後に母を亡くしていた安兵衛は孤児となり、19歳の時、家名再興を願って江戸に赴いた。
 小石川・堀内道場に入門した安兵衛は、天性の剣術の才で頭角を現わし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、同門の菅野六郎左衛門の高田馬場での果し合いに、助太刀を買ってでた。
 この決闘での安兵衛の活躍が江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛の強い要望により、安兵衛は堀部家に養子入りした。

 この後の、赤穂浪士47士による吉良上野介屋敷への討ち入りは、皆様よくご存知で、堀部安兵衛の活躍は「忠臣蔵」に広く紹介されており、剣豪でありながら、養父弥兵衛との微笑ましい関係などもあり、四十七士のなかでも特に人気が高い。

清水園
清水谷御殿とも呼ばれ、藩主溝口家の下屋敷として
作られたもので、広い回遊式庭園は風情があります
足軽長屋
新発田藩当時の足軽が居住した八軒長屋です。
清水園の向かい側にあり
所在地:新発田市大栄町7-9-32 問い合わせ/清水園:TEL.0254-22-2659
武家屋敷 「石黒家住宅」
七十石取りの中級武士、清水園に隣接して移築されている
景観整備された旧寺町通り
堀割があって城下町風情が色濃く残っています
福勝寺山門の前に鎮座する新発田重家像
境内には重家の墓所もあります
溝口家菩提寺の宝光寺の山門
宝光寺は文政年間の大火で消失、この山門は1845
(弘化2)年、11代藩主溝口直溥により復興されたものです
お休み処 寺町たまり駅 所在地:新発田市諏訪町2-3-28 TEL:0254-22-3101
寺町界隈の散策には、無料休憩所・観光映像情報・トイレ・観光ガイドボランティアなどがあり、ほっとひと息できる
上記施設を拠点に歩いてみませんか? 近くに、市営中央駐車場もあります。

上杉家臣団
新発田綱貞→新発田長敦新発田重家

披露太刀之衆 (譜代・外様衆) 十六位
侍衆御太刀之次第(永禄2/1559年)に列記
槍・歩兵・鉄砲・旗持ち・騎馬 計194 (謙信配下の39名の武将のうち) 九位
御軍役帳(天正3/1575年)に記載

上杉軍旗「毘」 新発田重家(しばた しげいえ)
 ■ 1547年(天文16年)? 〜1587(天正15)年10月25日
 ■ 源太。因幡守。新発田綱貞は父、新発田長敦は兄、妹は色部長実の正室。

 新発田氏は、宇多源氏佐々木氏の流れである。佐々木氏は、源頼朝の挙兵に初めから加わり、鎌倉幕府が成立すると諸国の守護・地頭に任じられた。越後国加治荘は佐々木盛綱が与えられ、この盛綱の子孫が越後に分立、嫡流は加治氏を称し佐々木一族は越後に繁衍(はんえん)した。

 新発田長敦は七手組大将の一人として上杉謙信に仕えた武将で、特に、外交手腕に優れ、謙信没(1578/天正6)後は上杉景勝に仕え、“御館の乱”でも景勝を支持し、武田勝頼との和議締結に尽力するなど外交手腕を発揮し、弟の重家とともに活躍した。しかし、戦後は十分な恩賞を得られないまま不遇のうちに病没した。

 新発田重家は兄・長敦とともに上杉謙信に仕え、川中島の合戦(新発田勢が武田方の諸角虎定を討ち取ったとも言われている)や関東出兵などに参加する。謙信の死後に起こった“御館の乱”では安田顕元の誘いで上杉景勝を支持し、上杉三郎景虎方についた同族の神余親綱を滅ぼすなど活躍した。当初は治長と称して五十公野家を継いでいたが、天正8年(1580年)、兄の死により新発田家の家督を相続し重家と名乗った。 

新発田重家の乱

 “御館の乱”は、さまざまな形で上杉家中に禍根を残した。特に論功行賞では死者まで出す結果となり、景勝や直江兼続の出身地「上田衆に厚いのではないか?」と不満が残り、納得しない家臣も多かった。
 重家もまた、神余親綱討伐の武功などで相当な恩賞を期待していたが、重家に対する恩賞は新発田家の家督保障のみという結果に終わった。
重家を景勝陣営に誘った安田顕元は、景勝と重家の和解に奔走したものの効果がなく、重家に謝罪する意味もあって自刃して果てた。

 謙信死後、越後攻略を狙っていた織田信長は、蘆名盛隆を通じて重家と誼を深め、かねてから不満を募らせていた重家は、天正9年6月、景勝に昂然と叛旗を翻した。
 信長の上杉包囲網に全力で対処しなければならない景勝は、当初、同じ揚北衆の 本庄繁長、色部長真に重家の監視対応を任せたが、本気とも思いないような慎重策であった。
織田軍は柴田勝家を総大将として越中魚津城攻略にかかり、さらに、川中島から森長可軍が春日山城とは目と鼻の先まで進出、加えて滝川一益が三国峠を越えて越後国境を脅かした。北越からは重家に挟み撃ちされる格好となった景勝は、絶対絶命のピンチに追い込まれてしまった。

 しかし、この時予想もしなかった“本能寺の変”(天正10年6月2日)が起こる。信長討たれるの報せはすぐに、春日山城攻撃に向かう織田方各軍団に届き、すぐに退却を開始。景勝は「九死に一生」を得ることになり、謀反を起こした新発田重家は一転して窮地に陥った。
 その後、関東国境での北条氏政との対峙、信州方面への徳川家康の北上などがあり、景勝は重家討伐に専念出来ない状況を抱えていた。さらに、越中佐々成政との挟撃を目論む重家の頑強な抵抗は続き、戦局は一進一退を繰り返し、重家は青蓮院門跡尊朝親王による和睦勧告を固辞、秀吉の降伏斡旋にも応じなかった。

 天正14(1856)年、膠着する戦局に大きな転機が訪れた、秀吉の招きに応じて景勝は上洛し、正式に臣従の礼をとったのである。
 かくして秀吉の支援を受けた景勝は重家討伐の大義名分を得た。一刻もはやく重家を討ち滅ぼすべき責任を負わされた景勝軍の猛攻の前に、新発田城、五十公野城は完全に孤立した。

 五十公野城を失い、新発田城を攻囲された重家は、最後の一戦を迎えようとしていた。
 天正15年10月25日、重家は城内を清めさせ最後の酒宴をしていたが、敵の乱入を聞き、もはやこれまでと、甲冑を脱ぎ捨てて腹掻き切ったという。
 ここに、戦国の豪傑が一人、歴史の彼方に消えていき、足掛け七年にわたった「新発田重家の乱」はようやく終結したのであった。

 ウモ殿の「埋もれた古城」の新発田城および、新発田重家の乱、冬ソナ風「冬のシバタ」ページは力作ですのでオススメします。
 また、ウモ殿直筆の 越後新発田城復元想像図 (廃城時)は、たいへん参考になりますので併せてご覧ください。

(現地案内板のものを切取加工)

参考サイト 埋もれた古城 ウモ 殿 新発田城、新発田城散策(1)・(2)・(3)、冬のシバタ、新発田重家の乱と6部の大作で非常に詳しいです

登城アクセス
 車  : 日本海東北道新発田IC〜合流/新新バイパス〜左折/新発田IC〜
  国道7号線〜右折/舟入〜合流/住吉町〜県道32号線〜左折/大手町〜
  市民文化会館の先を左折〜

駐車場 : 新発田城の専用無料駐車場を利用


「新発田市」公式 HPへ


「新発田城復元の会」HPへ

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