ザ・登城TOPへ

ザ・登城

近畿地方

河内(大阪府東部)

楠木正成、縦横の戦術を駆使して幕府大軍を翻弄!

下赤坂城  (山 城) 【所在地】 大阪府南河内郡千早赤阪村森屋

築城時期:  1331(元弘元)年 築城者:  楠木正成

しもあかさか じょう 城址銘碑
北側から見る

 遺 構  《 遺構/なし 》
 大阪府と奈良県の境に峙つ、標高1125mの金剛山は、幾重もの襞のような尾根を河内平野に広げている。下赤坂城は、その尾根の一支脈である甲取山に築かれた中世山城です。

 楠木正成ゆかりの三つの城のうち、出城である下赤坂城(標高187m)と本城の上赤坂城(標高350m)は山裾に築かれ、詰めの城である千早城は急峻な地形上(標高674m)に築かれていますが、この下赤坂城だけが唯一、遺構が何も残っていません。

 千早赤坂中学校裏手の丘陵の一角に石碑と案内板が設置されています。また村役場の駐車場にも案内板があります。下赤坂城の本丸の場所については、中学校の裏手とする説と、役場の裏手とする説の2説があります。

 “楠木正成出生の地”千早赤坂村は、大阪府下唯一の“村”ですが、下赤坂城址とされる千早赤坂中学校の背後の谷には、日本の棚田百選に選ばれている「下赤坂の棚田」の長閑な田園風景が広がり、安らぎと癒しを与えてくれます。


 1331(元弘元)年、闘う天皇・後醍醐が山城笠置山に挙兵する。楠木正成は、笠置山陥落後に備え、下赤坂城を築城する。
 約1ヶ月の篭城の後、鎌倉幕府軍により笠置山は陥落、正成の居る千早赤坂を目指した後醍醐天皇は捕らえられ、正成は、護良親王を奉じてこの地で倒幕の兵を挙げた。

 笠置山を陥落させた幕府軍は、関東の兵を加えた大軍をもって攻めかかるが、正成は奇策をもって迎え撃って翻弄する。篭城20日、最初の計略通り、自害したように見せかけて正成・護良親王らは金剛山中へと逃れた。

 1332(正慶元・元弘2)年、正成は奇計を用いて下赤坂城を奪還、周辺に17ヶ所もの支城・砦群を構築する。
 同年11月、護良親王も再挙し、翌年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が伯耆に脱出、千早城に拠った正成は、知略の限りを尽くして大軍を翻弄し、100日間も幕府軍を釘付けにした。その間、幕府に反旗を翻した足利高(尊)氏が六波羅探題を攻略し、新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡する。

 1334(建武元)年、復位した後醍醐天皇により天皇親政の建武の中興となった。
 建武3年、正成は、足利尊氏との“湊川の戦い”(兵庫県神戸市)で弟・正季とともに最期を遂げる。

 その後、足利尊氏は室町幕府を樹立し、南北朝の動乱期へと移っていく。なお、南朝に味方した楠木正儀がこの城に拠ったが、1360(延文5)年、北朝方により攻められ城を捨てている。

楠公産湯と伝承される井戸(誕生地の近く) 城址銘碑を南側から見る
伝承 「楠公誕生地」
永仁2年(1294)4月25日(27日の説あり)
ここ河内の国赤阪水分山ノ井で生まれたという。幼名は多聞丸

西方向の河内平野方面を望む
 当日は、大和高取城を2ヶ所の登り口より詳細に踏査していたため、伝承「楠公誕生地」に隣接する道の駅「千早赤坂」に到着したのは陽も落ちかけた夕刻、隣町の道の駅「かなん」にP泊し、翌日早朝に再訪問しましたが、あいにく、小雨交じりの曇り空・・・そんな訳で、写真が露光不足以前の出来で、とても掲載できるような代物ではないのですが・・・真に申し訳ありません。

下赤坂の棚田
「日本の棚田百選」に認定

鎌倉幕府軍を撃退した正成の山岳ゲリラ戦術!

家紋「菊水」
楠木正成(くすのき まさしげ)
家紋 「菊水」


 鎌倉幕府打倒、建武新政での重職就任、南北朝争乱における奮戦など・・・歴史に大きな名を残した智将でありながら、楠木正成の出自と経歴は謎に包まれたままだが、彗星のごとく出現し、わずか数年の日々を縦横無尽に活躍して悲壮な最期を遂げた正成の肖像は「太平記」などに詳しい。
 家紋は“菊水”。その軍功を称え、後醍醐天皇がみずから菊花を盃に浮かべ、「菊は千年の後までも薫るとか。おまえの名も千年後まで残るように」と下賜したが、「菊花紋は畏れ多いので半分だけ頂いて、半分は水に流すことにしよう」として菊水としたという。

 当時、地頭クラスの鎌倉武士たちは、自領の平坦地に、ほとんど方一町(約110m四方)の居館を造り、方形館などと呼ばれていた。それまでの戦いが、騎馬武者同士の野戦を中心とした戦いだったからで、山城を使った山岳奇襲戦を想定していなかったのである。
 大軍相手は篭城戦が一番!・・・と、最初から山城を拠点とし、敵を急峻な山岳へと引きずりこみ、縦横の戦術を駆使して撃退する―――少数の兵で大軍に立ち向かう正成の、それまでの合戦の常識を破る、全く新しい戦法は、我が国城郭史の大きな転機ともなった・・・

第一の極意は敵に見くびらせて、猪突猛進させること
■ 笠置山を落とした幕府軍は、関東の兵を加えた数万騎の大軍をもって、正成の籠もる下赤坂城に押し寄せた。守兵はわずか千余り、堀一重に塀一重、一息に揉み潰そうと寄せ登れば、四方の塀の釣り縄を一気に切り落とし、寄せ手千人余たちまち墜死。これが世に名高い、下赤坂城の二重釣塀である。さらに、城内から大柄杓で沸き返った熱湯を浴びせかけ、火傷を負う者三百も出たという。やがて、最初から下赤坂城を捨てる予定だった正成は、城の水の手を絶たれると、敵方の戦死者の死体を集めて城に火をかけ、全員討死したように見せかけて脱出した。

幕府軍の被害は、12人の書記が二昼夜かかってやっと死傷者数を記録できたほどだった!
■ 再挙して下赤坂城を奪還した正成は、幾つもの支城・諸砦を構築し、防御網の中心に詰の城・千早城を築いた。諸砦を落とした数万の幕府軍は千早城を囲んだ。 無数の蟻がたかるように斜面をよじ登ってくる敵兵に対し、正成はその頭上に、無数の大石や大木を投げ落として抵抗。幕府軍は一日で五、六千もの死傷者を出して退却したという。

■ 無理攻めを避けて包囲網を布いた寄せ手は、持久戦に出ても翻弄された。ある早朝、鬨の声が上がった。幕府軍はやっと出てきたかと押し寄せる。楠木勢は退いていく。やったとばかりに、塀際に残る敵に群がると、これが甲冑を着た藁人形であった。そこへすかさず、大石や煮えたぎった油が降り注がれ、大敗北。さらに、攻めあぐねて背後の金剛山に迂回した幕府軍だが、これも正成に味方する修験者集団のゲリラ戦に阻まれる。

■ 業を煮やした幕府軍は、京から500人もの大工を呼び寄せ、巨大な掛け橋を急造して倒しかけ、我先にと城中に乱入しようとした。その時、正成が油を染み込ませた筵を投げかけ火を放ったため、前を進む者は猛火にたじろぎ、後ろは押しかける味方に身動き出来ず、そのうち掛け橋が焼け落ちて、数千の兵が谷底に転落したという。

 敵の意表を衝く奇策の数々で、寡兵をもって大軍を倒し、幕府軍を100日間も釘付けにした正成の名声だけが高まるなか、やがて、鎌倉幕府は滅亡の時を迎えるのである。

登城アクセス
 車  : 阪和道美原北IC〜左折/下黒山〜国道309号線〜右折/千早赤坂村
  森屋〜府道705号線〜千早赤坂中学校(西側)

駐車場 : 城址碑近くに数台の駐車スペース有り


「千早赤坂村」 公式HP へ

ザ・登城TOPへ 近畿地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  近畿地方の城郭へ

滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県和歌山県