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近畿地方

山城(京都府南部)

ガラシャが細川忠興に輿入れした当初に過ごした城

勝龍寺[しょうりゅうじ]  (平 城) 【所在地】 京都府長岡京市勝竜寺町13-1

築城時期:  1339年(暦応2)?  1571年(元亀2) 築城者:  細川頼春?  細川藤孝

しょうりゅうじ じょう
南面の 櫓風管理棟城門 (模擬)

 遺 構  《 模擬/櫓・城門  遺構/曲輪・土塁・堀・空堀・井戸 》
 小畑川と犬川に挟まれた段丘上に立地する勝龍寺城跡は、近年の発掘調査を経て、現在、本丸跡と沼田丸跡が復元されて勝竜寺城公園として整備されています。

 本丸の周囲には、鉢巻石垣と堀、そして板塀と隅櫓、南側の正面には堀を跨ぐ大手橋と高麗門まで建てられている。城門を潜ると、一見櫓風の管理棟があり、1階が事務室・休憩室に、2階は展示室になっています。

 かつての構造は、方形の本丸を中心にその西側に沼田丸、沼田屋敷、北側に松井屋敷、米田屋敷、さらに北方に外郭と神足屋敷が構えられていた。
 近年の発掘調査でこうした構造の大半が石垣によって築かれていたことや、虎口部分が枡形虎口となっていたことが明らかになり、近江安土城に先行する織豊系城郭であることが判明した。
 また、「殿主」の存在したことも記されており、天主に相当する高層建築も存在していたようである。

 なお、北方の外郭跡にあたる神足公園には、竹林となってかろうじて土塁と空堀が残されています。


 京都盆地南西部の要衝である勝龍寺城は、従来南北朝時代に北朝(足利尊氏)方の前線基地として、細川頼春によって築かれたといわれてきたが、歴史的根拠はない。
 “応仁・文明の乱”(1467〜)では、西軍の拠点として畠山義就が修築している。

 織田信長によって足利義昭の入京(永禄11・1568)が果たされると、勝龍寺城は旧城主の流れを汲む細川藤孝に与えられ、1571(元亀2)年、藤孝は反織田勢力による山城侵攻に備えて城を改修した。藤孝は、その後丹後宮津城に移り、勝龍寺城には守将を置いた。

 1582(天正10)年の“山崎の合戦”では、明智光秀は勝龍寺城を前線拠点とし、山崎での敗北後、一旦勝龍寺城に退却し、近江坂本城(滋賀県大津市)めざして脱出するが、途中の京・小栗巣で自害して果てる。勝龍寺城は秀吉の大軍に攻められ落城し、その後、廃城となった。

東側の堀と北東角の隅櫓 北側の堀
北東角の隅櫓(模擬) 城外面 北東角の隅櫓(模擬) 城内面
内部は屋根付きの休憩スペースです 
細川忠興と玉(ガラシャ)の銅像
本丸跡にあります 
本丸跡北門近くに置かれている石仏・五輪塔などの発掘出土物
北門周辺の長塀 南面の本丸跡と沼田丸跡との間にある模擬冠木門
沼田丸跡の一部
本丸西側の南北に細長い(幅5m)帯曲輪を隔てた西南部に
位置し、東西約50m、南北約65mの長方形の曲輪であった
 
沼田丸跡の井戸
沼田丸の名は、藤孝の妻・麝香(じゃこう) の実家の
沼田氏に与えた屋敷があったことから呼ばれた
 

戦国のキリシタン女性 細川ガラシャ 愛と感動の物語

■ 名は玉、明智光秀と妻煕子(ひろこ)の間に3女として生れる。1563(永禄6)年生まれ〜1600(慶長5)年没
■ 15歳の時(1578年)に父の主君織田信長の薦めによって細川藤孝の嫡子で15歳の細川忠興に嫁ぐ
■ 1579年には長女が、1580年には長男・忠隆が2人の間に生まれた

 玉はたいへん美しい女性であり、勝龍寺城の忠興のもとに嫁いで2年余り、仲の良い相思相愛の夫婦には2人の子が生れ、やがて、細川一家は丹後宮津城に居を移すこととなる。

 1582年6月、父の光秀が主君・織田信長を“本能寺の変”で討って、僅か11日後には自らも滅んだため、玉は「逆臣の娘」となってしまった。
当主細川藤孝は、光秀の再三の加勢要請を断り信長の死を悼んで剃髪して幽斎と号し家督を嫡男・忠興に譲って羽柴秀吉に属した。

 忠興は秀吉に配慮したが、玉を愛していたがために離縁する気にもなれず、彼女を丹後の山奥深くの味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)という山里に隔離・幽閉した。
生れたばかりの子供と引き離された約2年間におよぶ玉の淋しい生活を支えたのは、光秀が玉の輿入れする時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原マリア(名は「いと」)らの侍女達だった。
 こうして玉の苦難の生活が始まります。そんな中にあっても、身分の分け隔てを超えた人間愛、優しさといたわりの心を常に忘れず持ち続けていたと言われています。

  1584年3月、豊臣秀吉の計らいで忠興との復縁を許され、細川家の大坂屋敷に戻 されたが、側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷に軟禁され外出を禁止されるなど、さまざまな困難が続く人生の変転の中で、玉はすでにカトリック教徒だったマリアからカトリックの話を聞き、その教えに心ひかれていったのであった。
 そんな中、夫の忠興が九州に出陣するという好機が訪れ、彼女は意を決して教会へカトリックの教えを聞きに行った。玉は自分の儒学の教養を総動員し、コスメ修道士に質問を浴びせた。コスメ修道士は後に彼女について「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と漏らしたという。
 儒学とカトリックの違いを見極めた玉は、1587年に密かにマリアの手によって洗礼を受け、ガラシャ(ラテン語で恩寵の意)という洗礼名を受けた。
忠興はこれを知って激怒し、秀吉から禁教令が出されていたこともあって再三棄教を迫ったが、ガラシャは応じなかった。

 秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が激化し、“関ヶ原の戦い”が勃発する。
三成は、家康が上杉討伐に兵を起こした際に、これに従った細川忠興を始めとする大坂城下に屋敷を構える家康方の大名から、人質を取ることを企て、まず細川家屋敷に軍勢を差し向け人質に取ろうとしたが、ガラシャはこれを敢然と拒絶。
 1600(慶長5)年7月17日、自害を選べぬキリシタンのガラシャは、家老の小笠原少斎に胸を貫かせて最期を遂げました。享年38歳。 このあと、小笠原少斎は屋敷に火をかけて自刃した。

「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

という辞世の句が後世に伝わっている。

 このように、細川ガラシャは、戦国争乱の大きなうねりの中に、その名を残す数少ない女性の一人で、苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、世の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った人であった。

 なお、細川屋敷を三成の兵に囲まれた後、ガラシャは長男忠隆の正室で前田利家の娘の千世に逃げるように勧めたと言われ、千世は姉妹である豪姫(宇喜多秀家の正室)の屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は忠隆と千世を離婚させてしまった。

★★ こぼれ話 ★★

 細川ガラシャは、結婚に伴って改姓した最初の日本人女性とされている。日本では明治維新までは、女性は結婚しても、姓(名字)を変えなかった。ガラシャの改姓は、ガラシャ自身がキリスト教徒になってからで、洗礼後は細川姓を名乗るようになった。日本で結婚によって、女性が改姓するようになったのは、明治新政府が欧米諸国の戸籍登録方針に倣った政策を執るようになってからである。

登城アクセス
 車  : 名神高速道路大山崎IC〜左折/国道171号線〜勝竜寺/左折
  〜市道〜落合橋袂手前/右折〜市道〜
  (大山崎ICより約15分)
駐車場 : 勝竜寺城公園の無料駐車場(沼田丸脇)を利用


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