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近畿地方

紀伊(和歌山県)

豊臣秀吉による水攻めに屈した太田党の本城

紀伊 太田[おおだ]  (平 城) 【所在地】 和歌山県和歌山市太田

築城時期:  延徳年間(1489〜1492) 築城者:  紀 俊連

おおだ じょう 来迎寺境内に建つ 城址銘碑

 遺 構  《 移築/現存門 》
 紀伊太田城は、備中高松城武蔵忍城と共に豊臣秀吉が水攻めを行なった城として有名です。だが、他の2ヶ所は堀・土塁などの遺構ともにある程度、城跡が残っているが、この紀伊太田城は残念ながら住宅地に完全に埋没してしまい何も残っていない。

 来迎寺のある場所が本丸跡と伝えられ、城の範囲は、来迎寺とその南側に位置する玄通寺を中心に東西二百五十メートル、南北二百メートルで周囲に深い堀を巡らし、東に大門をもっていたとされるが、城の規模は、小規模なほうである。

 紀伊太田城唯一の建物遺構として、徳川家の祖廟大智寺を併合した浄土宗の寺院である大立寺山門に、紀伊太田城の大門が移築されて現存している。


 紀伊太田城は、延徳年間に、紀俊連(きのとしつら)が築き(文明年間/1469〜87年という説もあり)、戦国時代の1576年(天正4)に太田源三大夫が修築した。

 1585年(天正13)、豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻。根来寺・雑賀衆と共に太田左近宗正を中心とする太田党も秀吉に臣従せず紀伊太田城に篭城した。

 秀吉は根来寺を焼き払い、太田城を包囲。水攻めをおこない、一ヶ月後に城兵に疲れが出始め、太田一族は自刃して開城した。

本丸跡にあたる来迎寺山門 本丸跡にあたる玄通寺山門
来迎寺のすぐ南側に位置する 

太田城の移築大門 (大立寺の山門)
本堂裏には、5代吉宗の祖母冷香院の墓がひっそりと佇んでいます
大立寺 所在地 : 和歌山市橋向丁

〓〓 “紀伊征伐” 紀伊太田城、秀吉得意の水攻め! 〓〓

 紀伊国北部には高野山・粉河寺・根来寺という三大寺社勢力と、太田党・雑賀衆という二大在地領主の勢力があり、戦国期にはこの5つの勢力が互いに牽制しあいながらも共存し、他からの勢力の侵入を排除していた。
 天正12年(1584)の“小牧・長久手の戦い”のとき、根来寺と太田党・雑賀衆は徳川家康・織田信雄連合軍に加担し、羽柴秀吉に対して抵抗の姿勢を見せた。これに気を損ねた秀吉は、“小牧・長久手の役”を和議とした後の天正13年3月10日、紀州征伐に乗り出したのである。

 秀吉はまず、根来寺を攻略すべく先遣隊として3万の軍勢を和泉国岸和田へと送り込み、自らも大軍を率いて大坂を進発した。
羽柴秀長・豊臣秀次を副将とし、海陸呼応して南下した軍勢の総数は10万ほどといわれ、羽柴勢の大軍の前に寡兵の根来寺はついに降伏した。

 こうして根来寺を降した羽柴勢はその勢いで紀ノ川沿いに進み、最後まで抵抗の姿勢を崩さなかった太田党の本拠地・太田城を攻略するべく進軍を続けた。
まずは堀秀政を先陣、長谷川秀一を第二陣とする攻撃を仕掛けたが、紀ノ川渡河の際、羽柴勢は太田党の伏兵によって多大な損害を蒙った。
太田党は太田(左近)宗正を首領とし、近在の農民を含む約五千人が城に立て篭もり、大軍の羽柴勢に対して強く抵抗した。

 太田城を力攻めによって落とすことは困難であると判断した秀吉は、紀ノ川の水をせきとめ、城を取り囲む総延長6キロメートルにもおよぶ堤を築き、水攻めをおこなった。
 攻防一ヶ月、やがて城中の兵糧も尽き、城兵にも疲れの色が見えてきた。城中では非戦闘員の婦女子たちまで餓死しはじめる状況となってきた。
そこで、太田宗正はついに開城勧告を受け入れることとし、降伏の条件である中心人物51名の首を差し出して開城した。これは、緒戦の紀ノ川渡河で秀吉が失った武将の数であった。

 時期を同じくして、太田党と同調していた雑賀衆残党の征伐も完了したことにより紀伊北部は秀吉の支配下となり、紀州平定はここに成されたのであった。

登城アクセス
 車  : 阪和道和歌山IC〜国道24号線
駐車場 : 無し


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