| 近畿地方 |
| 大和(奈良県) |
剣豪たちの足音・息づかいが聞こえる柳生の里
| 築城時期: 1642年(寛永19) | 築城者: 柳生(但馬守)宗矩 |
芳徳禅寺山門手前から見下ろした 柳生陣屋跡 全景
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| 遺 構 《 現存/家老屋敷 遺構/曲輪 》 | |
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柳生陣屋は小高い丘の上に築かれていた。陣屋北側にある八坂神社との間の道が旧柳生街道で、坂道となっている。この坂道が、かの有名な「正木坂」である。
小川を挟んだ対岸の山には、柳生新陰流正木坂道場や柳生義仙(列堂)が第一世を努めた柳生家の菩提寺である芳徳禅寺がある。芳徳禅寺の裏山に柳生氏累代の墓所がある。また、芳徳禅寺からは陣屋跡はおろか柳生の里までが一望に見渡せるが、超有名な場所の割には、こじんまりとしている感じがする。 陣屋跡は最近まで小学校の敷地として使われていたが、現在、史跡公園として整備されている。陣屋跡には建物遺構は残っていないが、近くに、武家屋敷の遺構として、江戸末期の柳生藩国家老の屋敷があります。
1594(文禄3)年、子の宗矩とともに徳川家康に仕えた宗厳は、その剣術指南役に請われたが、老齢を理由に辞退し、代わりに五男の宗矩を推挙した。宗厳は後に柳生に500石の所領を受けた。
家康に仕えた宗矩は“関が原の戦い”の功により父の旧領柳生庄に2000石を与えられる。
宗矩の死後、1万2500石の所領は、長男の柳生三巌(十兵衛)に8300石、三男の柳生宗冬に4200石と分知されたため、柳生氏は大名から旗本となった。三巌の死後、宗冬がその家督と遺領を引き継いだため、再び万石を領する大名となった。
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柳生陣屋跡
1747(延享4)年に全焼し、仮建築のまま明治を迎え、 最近まで小学校として使われていた |
陣屋跡北側の八坂神社との間の旧柳生街道の有名な「正木坂」 |
石舟斎塁城址碑と芳徳禅寺山門
寛永15年に宗矩が父石舟斎供養のため創建 (開山は沢庵和尚)した柳生家代々の菩提寺が芳徳禅寺です 柳生の里を一望に見おろす山王台上にあり、もと柳生家の 居城の地であり、かきあげ城の名残りをとどめている |
芳徳禅寺の北方約50mの裏山にある |
柳生家墓所の内部
80数基の歴代墓石が苔むし整然と並ぶさまは荘厳である |
正木坂道場 建物(模擬)
諸国遍歴10年、柳生に帰った十兵衛は道場を開き、 全国の門弟一万三千六百余人を教え、 柳生新陰流の奥義「月之抄」を書き残している |
一刀石のある石立神社に通じる鳥居
柳生家修練の場といわれるこの場所には、手力男之命が 開いたという天の岩戸の扉が空を飛んでここに落ちたという 伝説の巨石群があり、石立神社の御神体として祀られている |
一刀石 (戸岩谷)
約7m四方の花崗岩の巨石で、柳生新陰流の始祖 石舟斎(宗厳)が剣の修行中、天狗と思って切ったのが この岩だったと伝えられている |
旧柳生藩家老屋敷 長屋門
幕末の藩家老・小山田主鈴の隠居後の旧邸で、一時、 作家の山岡荘八氏の所有となり、NHK大河ドラマ「春の坂道」 の原作構想がここで練られた |
山深い柳生の里は、大和・山城・伊賀の国境に位置し、争乱の世に、戦国畿内の動静をうかがうのに最適の地であった 柳生の里は、大和の茶処でもあります |
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石畳の柳生街道を、散見する古い石仏に見送られてやがてたどり着く山あいの里、柳生。
今も変わることなく横たわる大自然の山里には、剣豪たちの厳しい息づかいが聞こえてくる。 “剣聖”上泉信綱にはじまり、宮元武蔵が二度も訪ねたが、手合わせが叶わなかったという柳生石舟斎をはじめ但馬守宗矩、十兵衛三厳、荒木又右ェ門など、戦国の剣豪たちが何を想い、何を夢見て、この道を歩いたのであろうか。
柳生を語るうえで、忘れてはならない剣豪がもう一人いる。その達人の名は、柳生(兵庫助)利巌(としよし 1579〜1650)
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| 芳徳禅寺境内にある 柳生家墓所の みどころ | |
石舟斎の剣の師「上泉信綱」の供養塔
戦国の剣聖「上泉信綱」については、コチラ |
酒樽の台、徳利の塔、杯の笠と、ひときわ人目をひく柳生俊睦(8代藩主の二男)乏斎の墓石 |
| 登城アクセス | |
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車 : 名阪国道針IC〜国道369号線
駐車場 : 奈良市営有料駐車場を利用 |
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石立神社の一刀石説明立札のところに、
「福岡県の背振山(せぶりざん)
近くの蛤岳(はまぐりだけ)山頂にも一刀石があります」
との書き込みがありましたが、
コレについてご存知の方がおりましたら情報をお知らせください。宜しくお願い申し上げます。
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