| 近畿地方 |
| 大和(奈良県) |
大和騒乱の渦中、筒井党が本拠とした平城
筒井城 (平 城) 【所在地】 奈良県大和郡山市筒井町
| 築城時期: 1430(永享2)年 | 築城者: 筒井順永 |
城址銘碑
集落の中の畑地にひっそりと佇んでいます |
| 遺 構 《 遺構/土塁・堀 》 | |
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筒井城は筒井の集落を包み込むように築かれていた。かつての本丸跡の一角には菅田比売神社が建ち、神社西側には僅かながら土塁も確認できる。
菅田比売神社および八幡神社周辺には、水田と蓮池となっている内堀跡が残っている。集落の中には、非常に判り難いところであるが筒井城址の碑もある。 近鉄橿原線筒井駅にある案内板を頼りに集落の廻りを歩いてみると、各所で分断されてはいるが、蓮池、水田、湿地帯となって、かつての城の名残りがあり、ほぼ城の外周を一周することが出来ます。光専寺の北側には外堀跡が残されている。 多聞山城から運び込まれたという石垣は、大和郡山城に使われたため、残っていません。
永禄年間、信貴山城主松永久秀と筒井順昭・順慶父子は大和の覇権を争う。順慶は、一時期、筒井城を出て椿尾城(奈良市椿尾町)に籠もる。
1577(天正5)年、織田信長軍に協力して信貴山城に籠る松永久秀を攻め滅ぼし、順慶は信長から大和一国を与えられる。
1580(天正8)年、信長よりの大和国一城令により筒井城を廃して、居城を大和郡山城に移す。
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城址に残る蓮池
奥に見える入母屋屋根は専念寺です |
城址の雰囲気を漂わせる湿地帯
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光専寺北側に残る堀跡
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小川の堤防として残る「順慶堤防」と呼ばれる土塁
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筒井順慶の木像が安置されている 光専寺
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洞ケ峠の僧侶大名 筒井順慶 光秀の参戦要請を振り切る!
1549(天文18)年生まれ。父・順昭の死後、家督を継ぐが、松永久秀に居城筒井城を追われる。1566(永禄9)年、得度して順慶と名乗る。後に明知光秀の配下となり、久秀を討伐。織田信長により大和一国を預けられた。1584(天正12)年没(死因は神経性胃疾患だったという)
【洞が峠(ほらがとうげ)】
両者を比べて自分に有利な方につこうとして形勢を見守ることを「洞が峠を決め込む」と言うが、この語源は筒井順慶に由来する。
“山崎の合戦”の最中、順慶は淀川対岸の洞ケ峠に布陣。明智光秀の敗色濃厚になってから、羽柴秀吉方に加わった……。そんな逸話のため、順慶の名は「日和見」という汚名とともに語られることが多いのだが、これは真実ではない。
いったんは光秀に与し、六月四日山城、五日には近江に出張った順慶だが、九日になると大和郡山城に篭城することを決め、翌10日には、山城から兵を引き揚げた。そして秀吉に款を通じた上で、篭城を続ける。この一連の挙動がもとで、のちに「洞ケ峠の順慶」という汚名をこうむることになる。
順慶が篭城を続けた理由は何だったのか? どうやら、世情騒然たるなか、領国の国人たちに不穏な動きがあったというのが真相のようだ。順慶としては、国人の去就定まらぬなか、居城を留守にできなかったのである。
かつて松永久秀と大和の覇権を争って敗れたときに、順慶は光秀の仲介で織田信長の助力を得、再起することができた。光秀との誼でもって、大和一国の支配を認められた身でもあった。
天下分け目の天王山を尻目に、チャッカリ洞ケ峠を決め込んだ剛毅な武将というより、その死因が示すように、案外、用心深い教養人であったのかもしれない。
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| 登城アクセス | |
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車 : 西名阪道郡山IC〜国道24号線〜左折/横田町〜国道25号線〜右折/ 筒井町〜市道〜 駐車場 : なし |
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