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関東地方

上総(千葉県中部)

戊辰戦争で取り潰された唯一の大名・林家

真武根[まふね]陣屋 別称=請西陣屋 (陣 屋) 【所在地】 千葉県木更津市請西1193-20

築城時期:  1850年(嘉永3) 築城者:  林忠旭

まふね じんや 陣屋跡石碑

 遺 構  《 遺構/土塁の一部 》
 三河以来の旗本である林家の忠英は、7千石の大身の旗本であったが、若年寄となって3千石加増され、諸侯に列した。
初め、忠英は上総貝淵(木更津市貝淵)に陣屋を構えたが、1850(嘉永3)年、2代藩主林忠旭がここ真舟(まふね)の地に陣屋を移し、請西(じょうざい)藩と称した。
請西藩林家は、石高1万石の小藩ながら伏見奉行などの要職を務めた家柄であった。

 1868(慶応4)年の戊辰戦争において、4代藩主林忠崇(ただたか)は、木更津に集結した人見勝太郎・伊庭八郎らの率いる旧幕府遊撃隊に同調して徹底抗戦。
徳川家と請西藩領民に累が及ばぬよう自ら脱藩し、陣屋も焼き払って出陣した。 その後、箱根・奥羽地方と各地を転戦し、ついに仙台で降伏、所領は新政府によって没収された。

   ちなみに忠崇はその後も長寿に恵まれ、文字通り『最後の大名』として、昭和16年94歳まで生き、激動の時代を見続けた。

表掲写真の向かって右側面から石碑を見る 道路を隔てた陣屋跡東側の様子
木更津中央霊園があり、陣屋跡とは無関係です 
残存土塁の一部 荒地となっている陣屋跡

林忠崇(はやし ただたか)の生きざま
落日の情景
 徳川親藩でさえ次々と新政府側につく激震の幕末維新前、自ら脱藩し、徳川家存続を旗印に徹底抗戦した弱冠21歳の青年藩主がいた。その名は上総請西藩第4代藩主、林忠崇(通称、昌之介)。
 大政奉還後の新政府による徳川家への措置に得心いかぬ忠崇は、旧幕軍遊撃隊長として、二度と自藩に戻らぬ覚悟で居館をことごとく焼き払って出陣。
転戦を重ねたのち、最後の抗戦を続ける奥州越列藩同盟に加盟するも、東北最大の大藩仙台藩までも恭順降伏へ、ここに奥羽越列藩同盟は瓦解します。

 ちょうどその時、徳川家の駿河移封が決定、徳川慶喜の命が保障される。これを知った忠崇は、当初の目的である「徳川家の存続」が適った以上、これ以上の戦は私戦であると降伏を決意。請西藩主としての抗罪を一身に背負っての切腹覚悟の行動であった。
 切腹は免れたものの、藩主自ら抗戦した罪の代償は重く、不遇な日々を過ごす忠崇であったが、「一文字大名の誇りと徳川家に対する義」を貫き通した彼の、その後の長い余生は、常に晴れやかであったという。

 昭和16年。臨終の前に近親者から辞世を求められた忠崇は、笑ってこう答えたといいます。

「明治元年にやった。今は無い。」
あの降伏の際に詠んだ、たった一度の辞世。

『真心のあるかなきかはほふりだす腹の血潮の色にこそ知れ』


 “義に生きた最後の大名”林忠崇の壮絶な辞世の句である。

登城アクセス
 車  : 館山自動車道木更津南IC〜国道127号線〜国道16号線〜右折/
  オートバックス角〜市道〜右折/あおいストアー近く〜市道〜左折/セブン
  イレブン〜左折/拓大紅陵高テニスコート〜

駐車場 : 駐車場は無し


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