| 関東地方 |
| 下総(茨城県南部) |
後北条氏の北関東における最前線軍事基地
更新 合併(2005.03.22)により 茨城県坂東市逆井 に住所変更
| 築城時期: 1577年(天正5) | 築城者: 北条氏繁 |
逆井城址公園入り口から見た、右から
大手橋と城門、物見櫓、平櫓、井楼矢倉 後北条氏築城技法を駆使した400年前の戦国末期の姿を再現 |
鎌倉時代の幕府執権・北条氏を「前北条氏」、戦国時代の小田原を本拠とした北条五代・戦国大名北条氏を「後北条氏」と区分して記す場合もあるため、
このページでは、この方法を用いて記名させていただきました。
| 遺 構 《 復元/物見櫓・平櫓・井楼矢倉・櫓門・木橋 模擬/主殿・木橋・塀 移築/城門・観音堂 遺構/曲輪・土塁・空堀・虎口・横矢掛り 》 | |
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逆井城は、戦国末期の築城技法が駆使された広大堅固な城郭で、逆井氏の構えた逆井古城の遺構と、後北条氏が大改築を施した飯沼城(逆井城)の遺構が重なる珍しい城です。
旧飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、かつて、城の北側は飯沼が洗い、西側は入り江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発(干拓)により、現在、その湖水はなくなりましたが、南北凡そ30kmにわたり、風光明媚な田園地帯と化してその名残を留めています。この飯沼が中央でかぎ型にカーブする所に逆井城があり、城は自然の要害でした。 戦国時代、この城は後北条氏の北関東における最前線基地で、飯沼が領国の境目で、佐竹・結城・宇都宮・多賀谷氏らの反北条氏勢力と対峙していた。 城域は、本丸にあたる一曲輪、一曲輪を囲むように二ノ曲輪を東と西に設け、東二ノ曲輪の東側に三の丸にあたる三曲輪、および外構を配し、また、この東側に外堀があり、谷が入り込んでいるという惣構いとなっている。さらに外郭として出城を構え、港とみられる入り江も有していた。
逆井城は、石垣を採用していない典型的な戦国期関東の城郭であるが、一曲輪周囲の大規模な堀、二ノ曲輪外周のいたるところに残る横矢掛かりや比高二重土塁など、後北条氏の最先端築城術を駆使した高いレベルの築城技法を体感することができます。
さらに、この城の持つ特色の一つに、前記の中世城郭建物群のほかに、東二ノ曲輪に保存・公開されている移築城門・観音堂や礎石、復元主殿や板碑などの展示物が挙げられ、この様は、さながら『野外の城郭博物館』の様相を呈しています。
この逆井常繁について、次のような伝説があります。常繁は古河公方に仕えていたが、1536年(天文5){この時期については異説があります}、(後)北条氏康の命を受けた大道寺駿河守盛昌の軍勢に攻められ、常繁は討死し、その奥方(娘とも)の智御膳(智姫とも)は先祖代々伝わる釣鐘を被って、城中の池に入水、城は落城した。この伝説の鐘を捜そうと何人もの人が池を掘り起こしたことから、「鐘掘池」と名付けられ、今も空堀の中にあります。
1577年(天正5)、相模玉縄城主・北条氏繁は、藤沢より大鋸曳き職人らを呼び寄せて城の大改築を行い、北関東侵攻を図る後北条氏の最前線軍事基地として、佐竹・多賀谷氏らの常陸勢と飯沼を挟んで対峙した。
(後)北条氏とともに、常に臨戦態勢を整えていた飯沼城も、1590年(天正18)、豊臣秀吉による“小田原征伐”に伴ない、廃城となった。
(逆井常宗から常繁までの継承者、および氏舜、氏勝が城主であったのかは、諸説分かれています)
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西外濠から入り江のあった東方向を見る
濠に塀を巡らした土塁、絵になる情景です
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物見櫓 (東面)
3×3間の櫓台の上に建つ初期望楼様式を伝える 二層3階の櫓で、天守の原型です 大手虎口を防御し、入城者を圧するため、 また後北条氏の力量を誇示する目的もあった櫓 右側は大手橋と城門、物見櫓の内部へは自由に入れます |
大手虎口付近の旧蓮沼入り江(舟入)
飯沼を利用した舟着き場跡で、中央の犬走り状のものは、 舟の乗降や荷物の積み降ろしに使用されたものと思われます |
大手橋
一本支柱構造で、発掘調査時、堀底から 石塔転用の橋脚礎石が出土しています 堀の曲がり角に斜めに架けられた筋違橋である |
井楼矢倉
通常、車輪がつく移動式が多く、物見や上からの指揮、 石火矢の発射台にも使われた戦闘目的の建物 米や饅頭を蒸す蒸篭と同じように、井桁を積み重ねて ラーメン構造とした工法 高さ11.86m |
下総関宿城の移築 城門 (薬医門形式)
民間に払い下げられ、個人宅にあったものを移築保存 |
主殿と枯山水庭園
堀之内大台城(茨城県潮来市)の発掘遺構を もとに復元したもの 中に入れます |
主殿内部
御殿内部は二部屋に分かれています (再々・・・訪問時画像) |
観音堂 (移築復元)
大安寺(茨城県岩井市)にあったもので、棟札から、天正16年(1588)の上棟後、幕末の弘化2年(1845)に改築されたもの |
駐車場から物見櫓を望む
手前は舟着き場のある堀です (再々・・・訪問時画像) |
西二ノ曲輪から西外濠を越えて旧蓮沼方面に出る観光用虎口 |
西外濠から南方角を見る
弓矢を放つ城兵が土塁内側から現れてきそうな気配が・・・ |
東二ノ曲輪から一曲輪(本丸)への 櫓門と橋
発掘調査の成果(遺構)をもとに復元されている 遺構保存のため、本来の位置より西に1m、北へ50cm ずらしてあるという |
堀底より左画像の橋を見る
一曲輪(本丸)へ繋がるのは、この東側からが唯一の虎口です |
東二ノ曲輪と一曲輪(本丸)との間の空堀と土塁 上画像の橋の右(北)側から北方向を見る 前方突端は横矢土塁になっています |
一曲輪(本丸)に向かう通路部分
古城跡西側より、智姫が入水したと伝わる鐘掘り池のある空堀を超えて入れるようにしてある観光用の通路で、本来の虎口は東側からのみです/FONT> (再々・・・訪問時画像) |
雑木林となっている一曲輪(本丸)
主郭には城山大権現が祀られています (再々・・・訪問時画像) |
一曲輪の周囲を巡る土塁
土塁の外側には深い空堀と、さらにその外側に二重に 土塁が張り巡らされています (再々・・・訪問時画像) |
干拓により水田地帯となった旧飯沼(手前は人工の西仁連川用水) 8代将軍徳川吉宗の命により、江戸時代の享保9年(1724) に干拓が行われた。現在の2市4町にまたがる東西1km、 南北20kmの広さの沼であった |
西仁連川用水
主郭の裏側を流れる西仁連川は、江戸時代の飯沼干拓 の悪水落としのために開削された人工の川です (再々・・・訪問時画像) |
東側の三ノ曲輪に建つ、もう一基の井楼矢倉 |
東二ノ曲輪東面の 比高二重土塁
堀(最大幅約13m)の外側と内側に土塁があり、高さが外側土塁に比べて内側土塁が高くなっているもので、後北条氏の築城法の特色の一つです |
東二ノ曲輪土塁・空堀の 横矢掛り
東面の約200mの区間に90度折れ曲がった所が8ヵ所あり、 うち6ヵ所は三つの鍵の手の屈曲で、そのうちの一つは 出枡形形状となっている |
内側土塁上から、比高二重および横矢掛り土塁の堀底を見る 現状の堀底は3m程埋まり、その形状は逆台形を呈し、 その一部遺構が展示公開されています |
古河城諏訪曲輪の書院礎石を展示保存(西二ノ曲輪) |
東二ノ曲輪にある 城址銘碑
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後北条氏家紋の相州鱗を刻んだ衝立(西二ノ曲輪の井楼矢倉内) |
東側の外構えに建つ八幡神社
「地黄八幡」こと北条綱成や北条氏繁により 勧進されたと伝わっています (再々・・・訪問時画像) |
管理棟の一角で営業している「智蕎麦」
優しく親切でサービス満点の店主夫妻、 超美味の手打ち蕎麦は広く有名です (再々・・・訪問時画像) |
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逆井古城
数次にわたる発掘調査の結果、一曲輪(本丸)の内部、および一曲輪南面の空堀外側周辺や東側より、古城のものと思われる土塁や空堀、乱杭柱穴などが発見されました。
以上のことから、後北条氏以前の逆井古城の中心が、前記載場所および下の画像の近辺であったと確実視され、伝承の逆井氏の城砦の上に後北条氏の城郭が築造されたと結論付けされています。 |
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虎口に架かる木橋(模擬)
いくつかある曲輪は、全て狭い曲輪です |
空堀の一部
浅い空堀ですが、数日前の豪雨で水が貯まっています |
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逆井城は、古城跡の遺構と北条流最先端築城術を駆使した遺構とが重なりながら残る城として、400年余り、この片田舎の地に、ひっそり眠り続けていました。
近年の発掘調査を経て、日本城郭史学会の西ヶ谷恭一氏ら多くの専門家の意見をもとに再現された中世城郭建物群は、残存遺構の数々と見事に融和させ、そのマッチングした姿は、往時の面影を森の中に残したまま佇んでいます。 逆井城址に立つ度、遥かなる時をこえて、野望とロマンに明け暮れ、栄枯盛衰 を繰り返した400余年前の戦国時代に想いを馳せ、戦国の人々の雄叫びと慟哭が聞こえてきます・・・
逆井城は、登城征服した中世城郭のなかで、加賀鳥越城、越前玄蕃尾城、安芸吉田郡山城、伊勢田丸城、常陸小幡城 などとともに、好きな城郭の一つです。
広大な惣構いの逆井城址のうち、まだ、一曲輪(本丸)・三曲輪・外構・八幡神社周辺・城域周辺、および逆井氏菩提寺の常繁寺などを撮影した画像がありません。
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再々・・・訪問して参りました。(2007/07/20)〓〓〓蕎麦の美味しさ加減はお伝えできませんが、撮影画像は「再々・・・訪問時画像」として掲載させていただきました。
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絵図風 配置案内図
(現地案内板の画像を加工) |
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逆井氏菩提寺の常繁寺
所在地 : 坂東市逆井(前山)883番地
逆井家の墓所は常繁寺境内の一角にありますが、お寺さんの話では、現在、墓守は常繁寺とは関係無しに、逆井家がされているとのことでした。
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朱塗りの山門が印象的な「逆井常繁」菩提寺の常繁寺(じょうはんじ) 山門脇には公孫樹の大木が聳えています (再々・・・訪問時画像) |
歴代住職の宝篋印塔(左端2基)の隣に佇む逆井氏一族の墓所 左から3基目の紫陽花の花が手向けられた石塔が 逆井常繁の墓石です (再々・・・訪問時画像) |
『さしま古城まつり』
「逆井城址公園」
毎年10月第2週頃に開催
『戦国時代』 それは自分の力しか信じられなかった特異な時代。
広大な惣構いの飯沼城址に立つたび、遥かなる時をこえて、野望とロマンに明け暮れ、
あなたも、中秋の一日、「さしま古城まつり」に出かけてみませんか?
時には、親兄弟妻子であろうとも敵味方に分かれて殺しあった
“下克上”の稀有な時代。 歴史の奔流の中で、
兵ども達の織りなす数多くのドラマが演じられました。
栄枯盛衰を繰り返した400余年前の戦国の人々の雄叫びと慟哭が聞こえてきす・・・