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ザ・登城

関東地方

常陸(茨城県北部)

水戸徳川家の四御連枝支藩の一つ宍戸松平家の陣屋

常陸 宍戸城[ししどじょう]  (平城・陣屋) 【所在地】 茨城県笠間市平町192他

築城時期:  八田家政/徳川頼雄 築城者:  鎌倉時代初期/1682(天和2)年

ししど じょう 宍戸陣屋の移築 表門

所在地 : 笠間市土師(はじ)622番地

 遺 構  《 遺構/土塁  移築/城門 》
 宍戸城跡は、JR水戸線宍戸駅の南側一帯の宅地、工場、水田を含む地域で、かつては7,000平方メートルほどの広さであった。

 明治22(1889)年のJR水戸線開通に伴ない城跡の北側一帯が破壊された。また駅の東側を通る岩間街道ができたとき城跡が分断され、かなり改変されたため、遺構がなくなり、道路に沿って住宅が建てられてきた。

 旧陣屋と呼ばれている台地が本丸跡で、宍戸駅に向かう北側の方がより広く展開する北の丸跡が環郭式に囲み、三重の堀が巡らされていた。南側を涸沼川が流れている。

 現在、遺構はほとんど潰滅してしまっているが、末広稲荷が鎮座しているところの本丸跡北側の土塁と、その南方の南側土塁が残っている。
 宍戸小学校の西側に歴史民俗資料館があり、古絵図などが展示されていて無料なので、ここを訪れてみるのも良いであろう。

 また、1844(天保15)年に建てられたという旧陣屋の表門が移築され現存している。門の冠木には角葵の御紋が付けられ、瓦には三つ葉葵紋が施されていて、格式を伝える重厚な門ですので必見です。


 宍戸城は、常陸国守護職・八田知家の子の宍戸(四郎左衛門尉)家政が宍戸の地を領し、鎌倉時代の初めに築いたという。
 宍戸氏は、16代義處の時に佐竹氏の軍門に降り、宍戸城は佐竹氏の持城となり、その子義長は1595(文禄4)に真壁郡海老ヶ島に移封された。この宍戸氏の居館は、旧陣屋本丸跡東方の「古館」と呼ばれている地域にあったと考えられている。

 1602(慶長7)年、佐竹氏の秋田久保田への減封に伴い、宍戸には湊城(秋田県秋田市土崎港)から秋田(安東)実季(秋田城介)が5万石で転封された。
秋田氏は平町一帯に「宍戸新城」と呼ばれる城を築いた。秋田氏は実季嫡男の俊季の時に磐城三春5万5千石に移され、その後、宍戸は天領となっていた。

 1682(天和2)年、水戸徳川家初代・徳川頼房が七男・松平頼雄に1万石分知し、宍戸に陣屋を構えて、水戸連枝親藩の宍戸藩として復活する。
代々藩主は定府であり、家臣は宗家からの出向で、ほとんどが江戸にあり、国元の家臣も水戸城外に役所を構えて執務した。
 新しく陣屋を築いたのは、1844(天保15)年、8(10)代松平頼位のときであった。

 徳川頼房三男の光圀は水戸徳川宗家を相続し、水戸連枝藩は頼房の長男・頼重が讃岐高松、四男・頼元が陸奥守山(福島県郡山市)、五男・頼隆が常陸府中、それにこの宍戸藩松平頼雄、の4家が水戸松平連枝藩である。宍戸松平家は10代(再勤)頼位まで続く。

 なお、幕末の1864(元治元)年、“天狗党事件”の鎮撫に失敗した9代頼徳は、責任を幕府から問われ切腹している。

本丸跡北側の土塁上に建つ末広稲荷  バス停留所みたいな「旧陣屋」の案内看板
標柱と案内解説板もあります
末広稲荷神社が鎮座している本丸跡北側の土塁 末広稲荷の南方の本丸跡南側の土塁
本丸跡南側土塁の上場を見る
幅5.4m、高さ2m、長さは100mほど
埋められてしまった陣屋の堀跡
左側建物は「社協宍戸支部会館」です
城域南西端部と思われる区域に建つ平神社 移築表門の冠木に付く角葵の紋
表門と葵御紋はいづれも県文化財指定です

登城アクセス
 車  : 北関東道宍戸IC〜合流/国道355号線〜突き当たり左折/宍戸小学校
  〜県道〜右側の旧陣屋公民館のところ

駐車場 : 旧陣屋公民館敷地内に駐車スペースあり


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