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関東地方

常陸(茨城県北部)

中世城館から廃城へ、そして陣屋として復活

志筑城[しづくじょう]  (平山城) 【所在地】 茨城県かすみがうら市中志筑(旧新治郡千代田町)

築城時期:  鎌倉時代初期 築城者:  下河辺政義

しづく じょう 城址銘碑
志筑小学校の校門脇の植栽の中にあります

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・空堀 》
 中世の志筑城跡および、近世の志筑陣屋跡は、恋瀬川右岸の台地先端部に位置し、東側から南側にかけて侵食谷が廻っており、本郭に当る小学校敷地は独立した丘陵状になっている。小学校の東側、南側部分は段郭状になっている。

 小学校の体育館裏手などに土塁が残り、小学校のグランド背後にある竹薮を覗き込むと、ここが空堀の跡であることが、容易に想像できる。


 志筑城は、鎌倉時代初め、源頼朝の家臣・下河辺政義(後に益戸氏)が、1181(養和元)年、頼朝に叛いた浮島の信田義広を討ち、その功により茨城南部の地頭となり、この地に城を築いたのに始まる。
 この城跡は、三方が深田に囲まれ、南部に自然の堀割を擁した天然の要塞で、土塁など鎌倉時代の築城方式を今に残している。

 南北朝時代、下河辺氏5代の顕助、国行父子は小田城主・小田治久と共に南朝方に属し、北朝方の石岡の大掾高幹にしばしば戦いを挑み、半年間も戦闘を続けたが、1341(興国2)年11月、小田城落城の報を聞き、翌日6代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤をはげんだという。

 その後、志筑城は 廃城となっていたが、1603(慶長7)年、佐竹氏の羽後久保田への国替えに伴い、替わって、出羽国(秋田県美郷町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって、1645(正保2)年、ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏12代の居城となっていた。

 (現地案内解説板より)

 本堂氏は代々8,500石の交代寄合の旗本であったが、明治元(1868)年、新政府の東征に功があったとして、新田分を加えて一万石の大名に列した。

城址となる志筑小学校の校門  校門脇に置かれている案内解説板
小学校の南西側下にある池
往時は水濠として機能していたことだろう
小学校東側の城塁
城址北東の栗畑となっている腰曲輪 城址北側の一段下がったところの深田跡
 この日は、小幡城の発掘調査現地説明会と、小幡城への再登城に時間をかけすぎ、志筑城跡に到着したのは、日没間際の夕刻になってしまった。

 そのため、全ての画像が露光不足となってしまい、見苦しい写真となってしまいました。申し訳けありません。

登城アクセス
 車  : 常磐道千代田石岡IC〜右折/国道6号線〜左折/恋瀬橋北〜国道
  355号線〜左折/石岡〜県道〜右折/池の下〜市道〜左折/三本目の辻
  〜志筑小学校

駐車場 : なし


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