| 関東地方 |
| 常陸(茨城県北部) |
中世城館から廃城へ、そして陣屋として復活
| 築城時期: 鎌倉時代初期 | 築城者: 下河辺政義 |
城址銘碑
志筑小学校の校門脇の植栽の中にあります |
| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁・空堀 》 | |
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中世の志筑城跡および、近世の志筑陣屋跡は、恋瀬川右岸の台地先端部に位置し、東側から南側にかけて侵食谷が廻っており、本郭に当る小学校敷地は独立した丘陵状になっている。小学校の東側、南側部分は段郭状になっている。
小学校の体育館裏手などに土塁が残り、小学校のグランド背後にある竹薮を覗き込むと、ここが空堀の跡であることが、容易に想像できる。
南北朝時代、下河辺氏5代の顕助、国行父子は小田城主・小田治久と共に南朝方に属し、北朝方の石岡の大掾高幹にしばしば戦いを挑み、半年間も戦闘を続けたが、1341(興国2)年11月、小田城落城の報を聞き、翌日6代国行は城を捨てて一族の小山氏のもとへ走り、その後も南朝方のために忠勤をはげんだという。
その後、志筑城は
廃城となっていたが、1603(慶長7)年、佐竹氏の羽後久保田への国替えに伴い、替わって、出羽国(秋田県美郷町)より当地へ移封となった本堂茂親が志筑藩の領主となって、1645(正保2)年、ここに陣屋を構えて廃藩置県まで本堂氏12代の居城となっていた。
(現地案内解説板より)
本堂氏は代々8,500石の交代寄合の旗本であったが、明治元(1868)年、新政府の東征に功があったとして、新田分を加えて一万石の大名に列した。
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城址となる志筑小学校の校門
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校門脇に置かれている案内解説板
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小学校の南西側下にある池
往時は水濠として機能していたことだろう |
小学校東側の城塁
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城址北東の栗畑となっている腰曲輪
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城址北側の一段下がったところの深田跡
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この日は、小幡城の発掘調査現地説明会と、小幡城への再登城に時間をかけすぎ、志筑城跡に到着したのは、日没間際の夕刻になってしまった。
そのため、全ての画像が露光不足となってしまい、見苦しい写真となってしまいました。申し訳けありません。 |
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| 登城アクセス | |
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車 : 常磐道千代田石岡IC〜右折/国道6号線〜左折/恋瀬橋北〜国道 355号線〜左折/石岡〜県道〜右折/池の下〜市道〜左折/三本目の辻 〜志筑小学校 駐車場 : なし |
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