| 関東地方 |
| 常陸(茨城県北部) |
筑波山を借景に仰ぐ堀と土塁の壮大な城、剣豪真壁氏幹が居城
更新 合併(2005.10.01)により 茨城県桜川市真壁町古城字本丸に住所変更
| 築城時期: 1172年(承安2) | 築城者: 真壁長幹 |
二の堀 越しに見る筑波山 二の丸から中城(三の丸)への土橋上から見た南方向 |
| 遺 構 《 移築/城門 復元/土塁・枡形 遺構/曲輪・土塁・堀 》 | |
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真壁城は、広大な関東平野に聳える孤高な秀峰“筑波山”の懐近く、続く加波山系の足尾山の西麓に位置し、東西に長い微高地を利用した広大な平城です。
堀と土塁に囲まれた曲輪が連なり、建物こそ存在しませんが、中世城郭としての遺構が良く残された貴重な城跡で国史跡に指定されています。 平安時代末期から安土桃山時代(1602年)まで、真壁地方を治めた真壁氏累代の居城であり、茨城県屈指の規模をもつ大城郭です。
縄張りは、平地より4〜5m高所の主郭(本丸)を二の丸が囲み、二の丸の西側に五の郭を設け、二の丸の東方へは、中城(古城)と呼ばれる三の丸、更にその東側に四の郭(四の丸)、北外張を梯郭式に配置し、四の郭南東端には、鹿島神社が祀られています。
筑波山を借景に仰ぐ風光明媚な田園地帯に横たわる真壁城址は、継続的な発掘調査を経て史跡公園として整備され、土塁や馬出しと思われる枡形などが復元されていますが、旧態も徐々に明らかになってくることでしょう。 周囲の地勢ですが、南と北側は、当時、湿地帯に守られていたと思われ、南東端の鹿島神社の先の東側は、徐々に高くなっており、加波山系の山上を敵に取られると城内が丸見えとなってしまう一抹の危惧を感じ得ませんが、この方面の堀は一段と深く、また土塁も高く盛られ、更に、四の郭の東側に北外張を設けるなど、特に堅固な守りとなっています。
南北朝時代の興国年間(1340〜46)、真壁幹重は、小田城(茨城県つくば市)・関城(茨城県関城町)・大宝城などとともに北畠親房の南朝方に与したが、やがて、南朝についた本流が没落し、北朝についた一族が家督を継承することとなる。
足利義満による南北朝統一後、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏により統治が行われた関東は、内乱状況が深刻化し、真壁氏は、東国における足利幕府方勢力の一員として組み込まれていた。
没落した真壁氏は、庶子であった景幹の子・朝幹が再興を鎌倉府に働きかけ、1436年(永享8)、赦されて所領を回復した。
戦国末期の関東北部は、西に上杉謙信、南に北条氏政が勢力を張り、北からは佐竹義重が南下し、幾多の合戦を繰り広げていた。
上杉氏から北条氏に寝返った小田城(茨城県つくば市)小田氏治は、1569年(永禄12)、片野城(茨城県八郷町)に佐竹義重の客将として庇護されていた太田(三楽斎)資正や柿岡城(茨城県八郷町)・梶原政景親子を攻めるべく軍を進めたが、筑波山麓において、真壁城・真壁氏幹らの援軍を得た資正や梶原親子は、これを打ち破り(手這坂の合戦)、またしても氏治は小田城を捨てて土浦城に敗走した。
1590年(天正18)の“小田原の役”で北条氏が滅亡した後、小田原に参陣した佐竹義宣は秀吉より常陸一国54万石余を安堵され、真壁氏も佐竹氏旗下として知行を宛がわれ、秀吉による“文禄の役”には、真壁氏幹は朝鮮に渡来した。
1602年(慶長7)、佐竹義宣は、徳川家康より“関が原の役”(慶長5年)での去就を咎められ羽後久保田城(秋田県秋田市)へ国替えとなり、真壁房幹(氏幹の弟の義幹の嫡男)は多くの家臣を真壁に残し、佐竹氏に随伴して、蘆名氏(義宣の弟)が入った羽後角館(秋田県角館町)へ移住した。
1606年(慶長11)、浅野長政が隠居料として真壁5万石を家康から与えられ、
長政が没した慶長16年、浅野長重(長政の三男=忠臣蔵で名高い播磨赤穂浅野家の藩祖)・(長男幸長は紀伊和歌山城主・二男長晟は紀伊和歌山から安芸広島城主)が真岡藩より入り、領内に陣屋を構えた。
1622年(元和8)、長重は真壁から常陸笠間に移り、真壁城は廃城となり、真壁の地は幕府直轄領・旗本領となった。
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本丸跡体育館正面の東側にある城址碑
奥に稲荷社が祀られていますが、この付近だけが 僅かに古城の趣きが残ります |
町立体育館となってしまった本丸跡
二の丸西側から、一の堀越しに本丸跡を望む |
本丸(右側)と二の丸(左側)との間の堀の西側部分
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三の丸南側の堀
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城域南東端に建つ鹿島神社
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鹿島神社東側の堀と土塁
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鹿島神社東脇の土塁
未整備で画像では解りづらいですが、規模は大きいです |
鹿島神社北側の南北に伸びる四の郭の土塁
後方は加波山系の山々です |
復元された四の郭南端の東西に伸びる土塁
高さは、6〜7mです |
同じく復元された四の郭南端の出枡形内部
縦長にせり出しているのが特徴です |
三の丸(中城)〜四の郭の間の三の堀越しに見た南端の土塁
土塁はこの部分で切れて、現在、水は入っていませんが、 三の堀は土塁外周を巡る堀に繋がっていた |
左画像の土塁切れ目の左側(東側)部分をズームアップ
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三の丸南端の復元された土塁
斜め上画像の土塁の続きで、右側(西側)部分になります |
二の丸東側の二の堀
左(西側)部分の二の丸は、体育館建設時の残土が 盛土され、本来の高さではありません |
二の丸跡の高台から発掘調査中の三の丸を見る
手前が二の堀、中央が三の丸・四の郭と続き、中央右が復元 された南端の土塁、奥のこんもりした林の中が鹿島神社です |
本丸北側の一の堀
未整備ですが、しっかり水が入っていました |
三の丸発掘調査の現地説明会の様子
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発掘された排水溝の石組み遺構
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発掘展示されていた古銭・陶土器の欠片(ビニール袋の中には鉄砲玉) |
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「鬼真壁」と恐れられた剣豪
真壁氏幹 の悲劇 1550〜1622
真壁久幹の長男。通称小次郎、のち安房守を称す。暗夜軒闇礫斎または道無と号す。 “鬼真壁”・“夜叉真壁”などと恐れられ、他家においても非常に名の知れた人物だった。 塚原卜伝に剣を学び大力無双といわれた剣豪で、一丈もの長さの鉄鋲を打ち付けた六(八)角棒を振り回し、合戦の際には敵兵の馬もろともなぎ倒したという豪将。
氏幹(うじもと)が生まれてから真壁城主となった戦国時代の末期、関東北部は上杉・北条・佐竹の三つ巴の争乱が繰り広げられ、とりわけこの地は、北上して勢力を張る北条と、南下を続ける佐竹とが対峙する最前線であった。
氏幹は数々の合戦を戦い抜き、北条氏滅亡などの激動の争乱を無難にくぐり抜け、佐竹家臣団において半独立を保ち、外様ながら重要な位置を占めるまでに至りました。
没後、氏幹の家系は歴史から姿を消してしまいます。まさに乱世を泳ぎ切り、広くその名を轟かせ、真壁氏19代にわたる歴代城主のうち、最も高名な当主にしては、余りに寂しい最期に思えます。
◇◇ 真壁の見どころ ◇◇
江戸時代から明治・大正にかけて、この地方の文化・産業の中心地として栄え、隆盛を誇った真壁町には、約200棟を数える商家・見世蔵・土蔵・門などが、歴史ある町割りとともに息づいています。 このうち、77棟(平成16年4月1日現在)が国の有形登録文化財に登録されています。 また、加波山系から産出される良質の花崗岩(御影石)を利用した墓石や燈篭などの石材加工製品はほぼ全国に出荷され、その生産額は日本一を誇っています。 他に、真壁城跡近くには、浅野一族の菩提寺として、浅野長政・浅野長重らが葬られている天目山伝正寺があり、山尾地区には、寺伝により応永元年(1394)、真壁行幹の創建とされる遍照院正得寺があり、境内には真壁家累代の墓地として40基の五輪塔群があります。 |
縄張案内図
(現地案内板より) |
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大和村の雨引山楽法寺(雨引観音)には、真壁氏最後の城主19代房幹が寄進した当時の城門が山門(黒門)として現存しています。
近々、白壁の残る懐かしい真壁の街並みをゆったり散策し、雨引観音にも足を伸ばして訪問し、画像を掲載したいと思っています。 |
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ようやく、真壁城の移築城門を見学してきました
2007.11.22 |
移築城門 黒門
所在地 雨引観音楽法寺:茨城県桜川市本木1 |
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真壁の街を歩こう
真壁のまちは、400年前の江戸時代の町割りが息づいています。この地方の文化・産業の中心地として栄え、隆盛を誇った商家の人たちが建てた見世蔵・土蔵・門などが、今もそのまま受け継がれています。
そうした歴史的建造物が市街地には288余棟を数え、国の登録有形文化財制度を活用して、104棟の登録を受けています。 ゆっくり、のんびり、不思議の時がうつろう街「まかべ」を歩いて、あなたごのみの街角を発見してください… |
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店舗(明治初期)・脇蔵(明治35年以前) 石蔵(大正期)・煙突(昭和初期) |
見世蔵・主屋(大正2年) |
| 登城アクセス | |
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車 : 常磐道土浦北IC〜国道125号線〜県道14号線〜県道41号線
鉄 道 : JR水戸線下館駅〜関鉄パープルバス/真壁駅〜関東鉄道バス/岩瀬 駅行き〜真壁町/古城下車 駐車場 : 城址の無料駐車場(30台程度)を利用 |
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