| 関東地方 |
| 常陸(茨城県北部) |
常陸国にこの人ありと畏怖された水谷蟠竜斎
| 築城時期: 1545(天文14)年 | 築城者: 水谷正村(蟠龍斎) |
芳全寺境内の水谷蟠竜斎 墓所
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁・水堀 》 | |
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久下田城は、鬼怒川と五行川との二つの川の間に挟まれた、標高50〜60mの台地の上に築かれている。
縄張りは、本丸・二の丸を囲んで、東側は五行川に臨む急崖をそのまま利用し、西側および南側には幾重にも堀をめぐらし、その中に水を溜めて、どこから攻めてこられても大丈夫という堅固な城になっていた。
現在でも、本丸・二の丸・堀の跡は明確にみられ、二の丸跡西側の大きな堀は真岡線の鉄道敷となっていて、現地を歩くと、この城の広大さを実感できる。
「連戦連勝」「結城家中にこの人あり」と畏怖されたバリバリの猛将・水谷(蟠竜斎)正村が、敵地に食い込んだ最前線に築いてこれを居城とし、幾たびも散々に迎え撃って敵方を蹴散らし、敵の諸城を接収し、宿敵の領土を蚕食してしまう。
久下田城は、1545(天文14)年、下館城(3館のうちの下館)主の水谷(みずのや)正村(天文12年に入道して蟠竜斎/ばんりゅうさい/を号す)が築城した。
水谷氏は藤原秀郷の子孫で陸奥国岩城郡水谷から結城城の結城氏を頼って来たといわれ、1478(文明10)年、関東管領と結城氏との抗争の際、その功績によって下館の地を与えられ、城を築いたのが初代の水谷勝氏であった。
水谷氏6代の正村は、久下田城を拠点に宇都宮氏と抗争を繰り返したが、のち田野城(栃木県芳賀郡益子町)などを攻略している。
なお、水谷氏8代の勝隆(勝俊の嫡男)が備中成羽(岡山県高梁市)を経て、備中松山へ転封となり、次代の勝隆の子の勝宗が、備中松山城を大改築し、今に残る現存12天守のうちの一つをはじめ、諸櫓などを造営した。
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市道からの城址入口付近の様子
真岡鉄道の線路の東100mほどのところ |
道路脇に建つ城址銘碑
左画像の入口のところです |
主郭への虎口部
車一台やっとの土橋で、両側には堀があります |
主郭虎口部土橋のところの堀(右/東側)
深さは普通ですが、幅は立派です。でも藪が… |
主郭虎口部土橋のところの堀(左/西側)
土橋は車道のために、多少は改変されていると思われる |
主郭内部の様子
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主郭は公園になっているが、小さな祠もあります
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主郭に建つ城址碑
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主郭に並んで建つ久下田城保存会の城址碑
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主郭周囲の土塁
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主郭から東下に降りる通路部分
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主郭東側直下の水堀跡
現在は水路になっています |
東側台地下の水路
ここも、水堀の名残りなのであろうか? |
主郭虎口南側の二郭以下の曲輪跡
広大な農地に変貌しています |
城址東方を流れる五行川
下流の川沿いに、中館(伊佐城)、下館(下館城)があります |
五行川越しに久下田城址を遠望する
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近くの芳全寺本堂と鐘楼
蟠竜斎がぶん捕ってきた「蟠竜の釣鐘」の模造鐘 (本物は戦時供出で失われた)があります |
蟠竜斎のお墓
戦乱に明け暮れた、バリバリ智勇兼備の名将でした |
配置図
(現地案内板より) |
| 登城アクセス | |
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車 : 北関東道真岡IC〜右折/国道408号線〜右折/突き当たり〜県道47 号線〜左折/長田〜国道408号線〜右折/国道294号線〜左折/久下田〜 市道〜左折/福聚寺の手前〜突き当たり 駐車場 : 城址内の駐車スペースを利用 |
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