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ザ・登城

関東地方

常陸(茨城県北部)

南北朝争乱時、北朝方の最初の攻撃を受ける

常陸 駒 城[こま じょう] 別称=駒館・駒楯館 (平 城) 【所在地】 茨城県下妻市黒駒

築城時期:  南北潮時代 築城者:  藤原実寛

こま じょう 城址に建つ 標柱、案内解説板、城址碑

 遺 構  《 遺構/土塁・空堀 》
 駒城は小規模ながらも国史跡となっているので、地図やナビなどにもその位置は示されている。
   駒城址には、土塁上に「史蹟駒城址」の碑が建てられ、そこが館跡であることを知らせている程度の微々とした保存状況である。

 南北朝時代、この地は三方が沼であったといわれ、西方2km余の所を鬼怒川が流れ、東方4kmほどの地点に関城があった。

 駒城の広さは東西約120m、南北約153mといわれ、城郭大系には、東方に物見櫓も見られるとあるが確認できなかった。
 現在、一部が雑木林として残り、周囲は耕地化されているところが多い。そして、館の中心部と思われる所を東西に市道が貫通しているが、その北側には土塁が残っており、さらにその外側には空堀の跡がわずかに残っている。

 なお、この市道に停車し、出発前の僅かの時間、車内で資料片付けをしていたところ、前方から進入してきた自転車に正面から衝突されてしまった。
 この中学生は、走りながら携帯型ゲーム器(ニンテンドーDS)に夢中になり、自動車が停車していることに全然気が付かなかったらしい。
 幸い、男子生徒も怪我をした様子は全然なく、車もなんともなかったので、その場で別れたが、車が自転車に、それも停車していて正面から衝突されるという初めての体験をした…。。。


 駒城は南北朝争乱の頃、中御門少将藤原実寛によって築城された。その頃、実寛はは興良親王を奉じた北畠親房と呼応して南朝方として兵を挙げている。

 1339(暦応2/延元4)年、足利尊氏から派遣されて常総地方に入った高師冬は、まずこの駒館の攻撃から開始したが、実寛の防備の固さに駒城は容易に落ちなかった。
 翌年1月には、小田城から春日中将顕国が、関城から城主の関宗祐が救援に駆けつけ戦っている。
 同年5月、高師冬の夜襲により駒城は落ち、実寛は捕らえられたが、翌日に藤原軍は奪い返して、師冬軍を撤退させた。
 その後、師冬軍は瓜連城(茨城県那珂市瓜連)に移って勢力を整え、1341(暦応4/興国2)年には小田城の攻撃を開始し、同年11月、北畠親房は関城へ移っている。
 この頃、駒城は落城したものと思われる。その後、勢いに乗った高師冬軍は、関城・大宝城に兵力を集中して激しい戦いが行なわれた。

土塁上に建つ城址碑  北側から見た土塁と空堀
少し離れた広域農道南側の土塁みたいな
塁上に建つ「駒の墓」と記された碑
駒城合戦の際に討死した人々を埋葬
した塚であるとの伝承が残る

登城アクセス
 車  : 常磐道土浦北IC〜右折/国道125号線〜右折/砂沼公園入口〜県道
  〜左折/黒駒公民館の先の信号〜広域農道〜右折/駒城橋(鬼怒川)の手前
  〜

駐車場 : なし


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