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ザ・登城

関東地方

常陸(茨城県北部)

伊達政宗の先祖、伊達氏発祥の地の居館跡

伊佐城[いさじょう] 別称=中館 (平 城) 【所在地】 茨城県筑西市中館

築城時期:  不明 築城者:  不明

いさ じょう 五行川沿いの 伊佐城址 遠望

 遺 構  《 遺構/曲輪・空堀・櫓台 》
 伊佐城は、鬼怒川と五行川とに挟まれた長い台地上にあったが、その台地は南北に走り、南端は下館といわれる下館城跡に続いていた。
 伊佐城のあった中舘付近の台地の幅は東西600mで、東側は12〜13mほどの断崖が続き、崖下には五行川が北から南へ流れている。
 城跡としての遺構は明らかでないが、現在、観音寺の本堂周辺が一段高くなっており、ここが本丸跡といわれている。そして、その後方には土塁の一部が残され、資料には浅い空堀が見られるとあったが確認できず、現地の原形は大きく壊されている。

 仙台伊達氏の発祥の地が、この伊佐城であり、天台宗の観音寺の境内が伊佐城址で、まるで城門を移築したような山門が出迎えてくれる。

 なお、下館藩最後(第9代)の城主となった石川総管が伊佐城址の中舘観音寺境内に葬られている。


 伊佐城は、築城年は不明であるが、築城者は、藤原北家山陰流の伊達朝宗(常陸入道念西)との説がある。また、天慶年間(938〜947)、藤原秀郷が平将門追討のために築いた3館(上館・中館・下館)のうちの中館を伊佐氏が改修したものが伊佐城との説もあり、定かではない。

 南北朝時代までの伊佐城については記録がなく、その詳細は不明であるが、伊佐城のあった常陸国伊佐郡は、平安時代末期から鎌倉時代まで、伊佐氏の領地であり、本領が陸奥国に移って伊達氏を名乗ってからも、代々この地を領していた。

 その後、南北朝の争乱が常陸国に及ぶと、城主の伊佐氏が同族の伊達行朝を迎え、南朝方の北畠親房が拠る小田城に呼応。大宝城関城など南朝方諸城とともに奮戦する。
 1343(興国4)、北朝方・高師冬の軍の猛攻の前に、関城の関宗祐・宗政親子や大宝城の下妻政泰が討死し、北畠親房も関城を脱出して、伊佐城は落城し、常陸における南朝方の組織的戦闘が不可能になると伊達行朝も力尽きて陸奥へ去っていったといわれている。

 この頃、伊佐城は廃城になったものと思われる。

市道沿いの八幡神社脇にある案内板
左側案内板の向こう側を左折(北から南に向かった場合) 

左画像の曲り角にある伊佐城址の石碑
袴橋の先の五行川の橋手前を左折します
この袴橋は観音寺への参道用の橋です
現存城門のような観音寺の豪壮な山門
河原に駐車して「延命水」の所から石段を上がり、
奥の観音寺の方に先に向かいました
観音寺本堂の下の広場 左の広場の隅にある下館藩主・石川総管の墓
観音寺の本堂 本堂の前に建つ伊佐城址の大きな石碑
本堂裏の残存土塁の一部 南方手前に戻って、観音堂を見る
観音堂裏手にある「伊達行朝」の供養等
伊達行朝(だて ゆきとも)
1291(正応4)〜1348(貞和4)

 南北朝時代の武将。南朝方の武将として各地を転戦した。父は伊達基宗。後に名を行宗と改めた。

 建武新政下で陸奥守として下向した北畠顕家に従い、顕家が足利尊氏を追って西上した時には、二度にわたり奥羽諸将とともに従軍した。

 顕家の戦死後は、旧地の伊佐城に拠り、関城、大宝城と相呼応し、北畠親房を助け、尊氏の武将・高師冬の軍と戦ったが、ついに陥落し降伏した。

 和歌にも通じており、『風雅和歌集』などにも入集した。和歌集での掲載名は藤原朝村。

登城アクセス
 車  : 北関東道桜川筑西IC〜右折/国道50号線〜右折/横塚信号の先分岐
  〜国道50号バイパス〜右折/中舘さくら大橋の先の信号〜市道〜右折/
  八幡神社角〜市道〜五行川の橋の手前袂を左折〜

駐車場 : 五行川河原の駐車スペースを利用


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