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関東地方

上野(群馬県)

赤城南麓に築かれた一城別郭式の丘城

上野 山上城[やまがみじょう]  (丘 城) 【所在地】 群馬県桐生市新里町山上282

 築城時期:  応永年間(1394〜1428)か?  築城者:  山上高綱

やまがみ じょう 山上城跡 模擬櫓風の看板
奥の建物は、併設の「新里町郷土文化伝習保存施設」

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・空堀 》
 山上城は、赤城山南麓の藤沢川と山田川に挟まれた低い舌状丘の先端部に築かれていて、現在は山上城址公園として整備されて、当時の形状が良く保存されている。
 この地は標高221m、比高約10mである。南五分の二ほどは別城で、一城別郭の構成を示し、さらに、西南1キロメートルの膳城(前橋市粕川町)との間に、互いに協力して後詰めし助けあう関係の別城一郭を編成している。

 南北650m、東西220mの規模をもつ並郭構造の丘城であり、北から、笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸と並び、二つの堀切を隔て、高さ約5mの物見台を持つ南郭へ続き、空堀・帯郭・腰郭が渦状に巡らされている。


 山上城は応永年間(1394〜1428)に、俵藤太といわれた藤原秀郷の流れをくむ、足利成行から2代目五郎高綱によって築城されたといわれます。
高綱はこの地を領して山上氏を称し、以後、山上氏歴代の居城となった。
 上杉氏が関東管領の頃は、由良氏・薗田氏・桐生氏などとともに東上州の四家として重要な役割を果たしていた。

 1555(弘治元)年、山上氏秀(道及)は北条氏康によってこの城を奪われ、下野国へ追われた。
 その後、山上城は、上杉謙信と小田原北条氏よる争奪戦が行われたり、一時、太田金山城の由良国繁の持ち城となったようである。
 1590(天正18)年の豊臣秀吉による“小田原征伐”ののちに、山上城は廃城となった。

 なお、上杉謙信にとって関東経営の要衝であった武蔵羽生城自焼の際、城代木戸忠朝以下城兵もろとも撤収させ、膳城および山上城へ引き取らせたのち、関東攻略から撤退している。

三の丸の芝生公園入口にある橋
庭園用の橋で、城塁も模擬の石垣で固められている
芝生広場となって綺麗に整備されている三の丸跡
約5mの段差で二段に分かれています
三の丸跡南端から、南郭および見張台方面を望む 三の丸の南側城塁
公園化の際に、かなり削られてしまっているようです
三の丸跡にある第一号井戸 三の丸芝生広場には、こんなモニュメントが…
城跡なので、鎧をまとったサイ君が
好きな動物なので嬉しかったです!
長さ約400mを南北に走る空堀
空堀は堀底道になっています
三の丸西端から二重になっている空堀・土塁を見通す
西側からの攻撃を意識した構造となっているが、
それでもまだまだ側面攻撃に弱い
三の丸にあった何かの石の配列
番号も付けられているが、礎石にしては密着しすぎて
いるし、いったい、何の跡なのか?
三の丸と二の丸との間の堀切
西から東方向に見る
本丸北端の中央にある城址碑 本丸東下の上腰郭
この上腰郭の、さらに一段下に下腰郭が存在します
本丸と北郭との間の堀切 北郭と笹郭との間の堀切
笹郭の城塁には笹が一杯生えています
笹郭から見た北方の赤城山 二の丸跡から見た本丸跡
一段高い部分が本丸跡で、南から北を見る
本丸西側直下の空堀(堀底道)に立つ
左側の帯郭と本丸跡の間には、上腰郭が存在します
現在、一城別郭式の南郭北側の堀切跡は
道路になってしまっています
三の丸跡と南郭との間の郭?(名称不明)は、墓地以外
のところは、地形がかなり改変されています
南郭にある見張台の櫓台
方約20mほど、高さ約4〜5mの規模がある

縄張図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 北関東道太田薮塚IC〜左折/市道〜右折/オレンジハット角〜県道
  68号線〜左折/大原上〜県道69号線〜左折/大間々町大間々〜県道3号線
  〜右折/小林〜左折/町組構造改善センター〜市道〜突き当たり

駐車場 : 山上城跡公園の専用無料駐車場を利用


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