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ザ・登城

関東地方

上野(群馬県)

関東管領上杉氏を支えた白井長尾氏の居城

白井城[しろいじょう]  (崖城/平山城) 【所在地】 群馬県渋川市(旧/北群馬郡子持村)白井

 築城時期:  永享年間(1429〜1441)か?  築城者:  長尾景仲

しろい じょう
本丸枡形の石垣

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・石垣・堀 》
 白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に、自然の要害を利用して築かれた城である。利根川や荒川など、関東平野を貫通する大河沿いには崖城が数多く存在しますが、この白井城もそんな要害の一つです。

 城の中心である本丸曲輪は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面しており、それ以外の方角は高さ2〜3メートルの土塁に囲まれている。本丸曲輪の北側には枡形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存しています。
 本丸曲輪を出て深い堀を土橋で渡ると北へ二の丸・三の丸と続き、その間にも堀が残っている。三の丸の外側には北の守りとして北郭・金毘羅郭があり、本丸曲輪の南東には笹郭・南郭・新郭が連なっている。
 さらに城域の北と東には、それぞれ北遠構・東遠構の堀があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。

 なお、城址近くには白井城の城下町として栄えた白井宿が保存整備され、この一画には、道の駅「こもち」や「白井温泉こもちの湯」(日帰り温泉施設)などが併設され、一箇所でいろいろ楽しめるオススメの場所です。


 白井城の築城時期は定かでないが、関東管領・山内上杉憲実の重臣であった長尾景仲による築城と伝わっている。
 白井城もこの地方の他の城郭同様、上杉氏、北条氏、武田氏などの戦国大名間の抗争の波に揉まれた歴史を繰り返している。そのため、白井城を居城とした白井長尾氏は、上杉氏ー武田氏ー上杉氏ー北条氏ー滝川氏ー北条氏と、幾たびも主を変えている。

 1590(天正18)年の“小田原の役”では、北関東防衛の要衝とされたが、松井田城(群馬県安中市松井田町)を攻略した前田利家・上杉景勝らの北国方面軍の攻撃で、長尾政景が降伏して開城した。

 家康の関東移封後は、徳川譜代の本多康重を2万石で入れた。“関ヶ原の戦い”での戦功により、翌年、本多康重は三河岡崎に加増転封となり、代わって、松平康長が2万石で入るが、翌1602(慶長7)年、すぐ下総古河へ移封となった。
 徳川四天王・井伊直政の次男・井伊直孝が1万石で入るが、長兄の直勝が病弱なため、1616(元和2)年、家康の命により直勝は廃され、直孝が新たな彦根城主となった。代わって白井には西尾忠永が2万石で入り、翌々年、常陸土浦へ移封となった。

 その後、本多康重の次男・本多紀貞が1万石で入る。しかし、1623(元和9)年、紀貞は嗣子無く死没したため、白井城は廃城・破却となり、その所領は旗本領として分割された。

古い街並みが残され綺麗に整備されている
宿場町/白井宿
本丸曲輪
高さ2〜3mの武者走り状の土塁が三方向
(北・東・南)に巡らされています
本丸曲輪の東面土塁 本丸曲輪の南面土塁
本丸曲輪の西側直下を流れる吾妻川   本丸曲輪越しに西方向を見る
川の浸食によって削り取られてしまったのかこの西面だけ土塁がありません。およそ30mほどの断崖になっています
本丸曲輪の南側一段下の笹郭
先端部分が櫓台のようになっています
虎口から回り込んで西側に伸びる掘。掘の西端は吾妻川の断崖に落ち込んでいきます
本丸曲輪東側の三日月状の掘と土塁 全面農地となっている二の丸曲輪跡
二の丸と三の丸との間の東側の堀 二の丸と三の丸との間の西側の堀
三の丸曲輪跡 三の丸曲輪と北郭との間の屏風折れ状に
横矢がかかった堀
北郭の櫓台跡。現在は城山不動尊となっています 北遠構の城戸口跡
左角奥は源空寺の墓地
最後の藩主・本多紀貞の墓のある源空寺山門 東遠構の城戸口跡

白井城址周辺の空撮写真
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 関越道渋川伊香保IC〜合流/国道17号線〜R17鯉沢バイパス〜左折/
  カインズホーム前〜市道〜すぐ右折〜すぐ三叉路左折〜最初の信号機無し交
  差点を左折〜行き止まり(城址)

駐車場 : 城址に駐車スペースあり

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