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ザ・登城

関東地方

上野(群馬県)

藤原秀郷の後裔とされる東毛の豪族・大胡氏築城の並郭式城郭

大胡城[おおごじょう]  (平山城) 【所在地】 群馬県前橋市大胡町河原浜660-1

 築城時期:  天文年間(1532〜1555)  築城者:  大胡氏

おおご じょう
本丸南側の土塁
先端部が武者走り状になっています

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・空堀  移築/城門 》
 大胡城は前橋市役所大胡支所のあるあたり、荒砥川西岸にある丘の上に並郭式に曲輪を配置して築かれた城だ。
 城址は市役所支所やシルバー人材センター、幼稚園等の建設によって大部分の曲輪は破壊されているが、中心部はとても良い状態で残されている。

 この城は、現在の大胡神社のあるあたりと、その北側の近戸郭が大胡氏築城の「古城」部分であり、本丸以下の曲輪郡は、近世城郭的要素も多く、これは時代が下って北条高広から牧野氏時代に築かれた新城なのだ。

 北から近戸郭・北城(越中屋敷)・本丸・二の丸・三の丸・南郭と並び、それぞれの曲輪は、深い堀切によって区画された並郭式縄張りとなっている。
さらに、東側を流れる荒砥川と主郭部との間に根古屋地区、三の丸前方に西郭の平地部を付加している。大手は南先端部の大胡支所辺りに置かれていた。

 二の丸の桝形虎口、水の手門虎口や、雄大な空堀・土塁等の遺構が残されています。


 大胡城は、天文年間に大胡氏によって築かれた。1541(天文10)年、大胡勝行は太田金山城の横瀬泰繁の勢力に押され、後北条氏を頼って武蔵牛込城へと移り、大胡は太田金山城の支配下に入った。

 上杉謙信が関東に進攻すると、大胡城には北条(きたじょう)高広を入れた。高広は、謙信没後も厩橋城主となり武田勝頼に従い、大胡城へは大胡高繁が入った。
 やがて、北条高広、大胡高繁のどちらも小田原北条氏の配下となるが、後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、関東には徳川家康が入った。

 1590(天正18)年、家康の関東入国に従い、大胡城へは牧野康成が2万石を領して入封した。子の忠成が1616(元和2)年に越後長峯城→越後長岡城へ加増移封され、大胡は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、1749(寛延2)年、酒井氏は播磨姫路(兵庫県姫路市)へ転封し、大胡城は廃城となった。

東側を流れる荒砥川と城址遠望 根古屋地区から二の丸へと登るトンネル部分
右端の一段高い部分が本丸跡です
南東部の石垣積みの枡形虎口越しに二の丸跡を望む
中央建物はシルバー人材センターです
二の丸南側の内側に切れ込んだ水の手虎口跡
奥の一段下がったところが三の丸跡ですが、
かつては、その間に川が流れ込んでいました
二の丸と本丸西側との間の堀と土橋 二の丸から本丸西側へ通じる虎口と土橋
左画像図Aの土橋部分です
前出のトンネルを潜った二の丸への通路地点から本丸南側に登る石段 本丸西半分の一段低い方の部分
奥に祠があります
本丸の低い方の部分から一段高い方に至る虎口石垣部分 本丸の一段高い方の部分を南から北に見る
本丸の南西角部の土塁内側部分
小姓の身長は132センチメートルです
本丸東面土塁上から北東方向を望む
本丸北面土塁上から川越しに北城跡を見る
北城跡には幼稚園があります
本丸・二の丸西側部分と北城跡との間を流れる川
川の両岸の石垣は後世のものです
北城跡と大胡神社・近戸郭との間の堀底を
東西に走る市道
近戸郭から大胡神社裏手(北側)への出入り口
ここは搦め手虎口になるのか?
向かって右側などは深い堀になっています

登城アクセス
 車  : 関越道前橋IC〜合流/国道17号線〜左折/表町一丁目〜右折/R17
  千代田町〜主要地方道・諏訪橋経由〜左折/大胡〜すぐ右折〜すぐ左折〜
  荒砥川・城山橋際を左折〜

駐車場 : 二の丸の無料駐車場を利用

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