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関東地方

上野(群馬県)

織田家嫡流が国主格藩主の陣屋。大名庭園を復元中

小幡陣屋[おばたじんや]  (陣 屋) 【所在地】 群馬県甘楽郡甘楽町小幡

 築城時期:  1629(寛永8)年  築城者:  織田信昌

おばた じんや
藩邸跡への北西側虎口越しに楽山園築山の茶室・東屋を望む

 遺 構  《 遺構/石垣・土塁・堀・庭園 》
 城下町の落ち着いた街並みが小京都にも例えられている小幡ですが、陣屋御殿跡には楽山園と呼ばれる大名庭園があり、現在、平成23年度までの10ヶ年計画で復元整備工事中です。

 小幡陣屋は関東の他の陣屋のような明確な縄張りを持たず、小幡の街並は斜面に広がっていて、周囲の武家屋敷も含めて谷全体を城の縄張りとしています。
現在の歴史民俗資料館近くの大手門跡の上側を「城内」として武家屋敷を配置、下側に町屋地区を設けた配置に分かれていました。

 陣屋からのちに国主格となったため、小幡城とも呼ばれる清流の街・小幡は、それほど広くはありませんが、街全体が城下町の雰囲気を色濃く残す美しい景観をとどめ、ゆったり歩きながら散策するのにちょうどよい。


 13世紀初頭には、武蔵七党で児玉党一派の小幡氏がこの地に居住し、勢力を確立していたと推考されている。
小幡氏は国峰城(甘楽町国峰)を居城とし、のち、武田信玄の幕下に加わり活躍した。

 徳川家康の関東入国後、甘楽郡奥平郷(旧吉井町)出身である奥平氏の奥平信昌が小幡領2万石の領主として宮崎城(富岡市)に入った。
1601(慶長6)年、家康の娘(亀姫)婿である奥平信昌が新城の美濃加納城に移されると、その後の一年間は、信昌四男で家康の養子となった松平忠明がこの地の領主となった。
 その後の24年間に、水野忠清・井伊直政の二男直孝・永井直勝と、小幡の地は4度領主が入れ替わっている。

 1615(元和元)年、二条城での「禁中並武家諸法度」布達の際に、織田信長の二男信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、翌年、信雄の子の信良が福島(旧甘楽郡福島町)の御殿に入り、織田氏による小幡支配が開始され、3代信昌により福島から小幡の地に移転され、1642(寛永19)年に小幡陣屋の普請は完了した。
織田氏の治世は七代続いたが、信邦の時に、山県大弐の「明和事件」への関わりを咎められ、家格の特別待遇を剥奪され、出羽高畠(のち天童へ移転)へ転封となる。

 1767(明和4)年、奥平家とも縁続き親藩の松平忠恒が入り、以後、松平氏4代の治世で明治を迎えた。

復元工事中の北東側虎口と土塁 楽山園の築山を中心とした庭園
広い昆明池を掘り、いりは四八の銘石を配し、築山には
東屋を建て、熊倉山・紅葉山の借景によって庭園美を
盛り上げている
築山に建つ「腰掛茶屋」 築山に建つ「梅の茶屋」
井戸屋形と釣瓶式の「熊井戸」 井戸跡

街並みに美しい塀が復興されています

喰い違い郭
旧陣屋の中小路に面した武家屋敷の入り口に造られた
もので、戦の時の防衛上のためのものとか。また、
下級武士が上級武士に出会うのを避けるため隠れた<br>ともいわれています。

写真写りは良いのですが、
実際は大変小さなもので、場所も判りづらいです。
大手門礎石
甘楽町歴史民族資料館向かい側の
町営無料休憩所のところにあります

旧陣屋の中小路通り

崇福寺の旧境内に建つ織田宗家七代の墓 織田信雄(信長の二男)の墓


雄川堰一番口取水口
古くから住民の生活・農業用水、精米などの多目的に利用されてきた用水路で、日本名水100選にも選ばれています

雄川堰

雄川堰の矢羽橋
破魔矢の意味を持ち、織田氏時代の厄除けとして
鬼門を指している橋です
雄川堰の分水路
雄川の小堰であり、各家庭の家に水を送るために
造られた逆水路で、当時の土木技術が偲ばれる

登城アクセス
 車  : 上信越道富岡IC〜右折/T字路〜右折/内匠〜県道10号線
  清水橋経由〜右折/小幡〜県道46号線〜右折/甘楽二中入り口〜

駐車場 : 楽山園の無料駐車場を利用

甘楽町公式HPへリンク
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