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関東地方

上野(群馬県)

新陰流開祖・剣聖「上泉伊勢守信綱」が居城

上泉城[かみいずみじょう]  (平 城) 【所在地】 群馬県前橋市上泉町宿1168

 築城時期:  1455(康正元)年  築城者:  一色(のち上泉氏)義秀

かみいずみ じょう 本丸跡に残されている県指定史跡の「上泉郷蔵

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・空堀 》
 上泉城は、旧上泉町を流れる桃ノ木川と藤沢川の合流地点に築かれた平城です。
現在の、「上泉郷蔵」の建つところが本丸跡、上泉町自治会館の敷地が二の丸跡、郷蔵の建つ北側・民家のある一角が三の丸跡となる縄張りで、堀跡・土塁が残っている。

 上泉城の大きな特徴は、一城別郭となっていて、前出の本丸・二の丸・三の丸の曲輪のほかに、一の郭(西林寺)、二の郭(藤沢川西岸の一角)、出丸(玉泉寺境内)が配置された縄張りとなっていることである。
 さらに、現在の西林寺(一の郭)の西側および、桃ノ木川に架かる浪華橋のところを、かつては、旧利根川の急流がその城壁を洗うがごとく流れていました。

 上泉伊勢守信綱の菩提寺である前出の西林寺には、上泉秀胤(伊勢守信綱の嫡男)の十三回忌に父・伊勢守信綱が建立した墓があります。

 なお、本丸跡に建つ「上泉郷蔵」は、群馬県指定史跡であり、全国的にみても「郷蔵」の遺構として貴重なものであります。

 余談になりますが、2008年が「上泉伊勢守信綱」生誕500年祭にあたるため、これから序々に改善されるとは思いますが、「上泉城」といっても地元の人でも知る人は少なく、「上泉の郷蔵(ごうぐら)は何処ですか?」と聞くほうが分かり易いです。


 上泉城は、1455(康正元)年に一色(のち上泉氏)義秀により築城されたといわれる。義秀は1453(享徳2)年、名門・俵籐太こと藤原秀郷ゆかりの大胡家を再興し、元通りの勢威に復すると、大胡氏に大胡城を譲り、隣接の地上泉に、一城を構築して移り住み上泉氏を名乗った。

 上泉城主は、 義秀-時秀-義綱-信綱(秀綱)-秀胤と続いた。 戦国時代は、山内上杉家に属していたが、川越城の“川越夜戦”で山内上杉家の勢力が衰えると、北条氏の勢力が上野国に及び、攻められて上泉城は開城する。

 その後、上杉謙信が関東に進攻して関東を支配すると、謙信は箕輪城主・長野氏をこの地方の押さえとしたので、信綱は長野氏の属将となった。
 謙信と敵対する武田信玄が箕輪城を攻めた時、信綱は箕輪城にあって武田軍と戦い活躍するが、箕輪城はついに落城した。

 長野家滅亡後は武田信玄に仕官を請われるが、固辞して我が流儀を広めるため諸国流浪の旅に出る。この時、それを惜しんだ信玄から名の一字を貰い、名を信綱と改めた。

城址にはためいていた「上泉伊勢守」生誕500年の幟旗 二の丸跡にあたる「上泉自治会館」
自治会館看板の右側は「上泉郷蔵附上泉古文書」
の説明板です
二の丸跡と本丸跡との間の路地部分
自治会館が出来る前までは、この路地部分か、
そのすぐ南側は水堀であったという
本丸跡の土塁
少し改変されているようですが…
「上泉郷蔵」建物をアップしてみました
一段と高い土塁上に建つのが判ります
郷蔵脇に建つ「上泉郷蔵附上泉古文書」の史跡碑
上泉郷蔵附上泉古文書

 この郷蔵は天災や飢饉などの非常時に備えて麦などの穀物を貯えることを目的として、江戸時代の1796(寛政8)年に、前橋藩の貯穀令により建てられた土蔵です。

 上野国内の郷蔵は、明治以降他の目的に利用され、本来の姿を失うものが多かったが、上泉郷蔵は本来の目的を貫き、明治42(1909)年まで使われていました。
 なお、この間の郷蔵維持関係古文書が保存されており、その経緯を詳しく知ることができます。

 平成3年から、全面解体修理を施しています。昭和36年に郷蔵建物と保存古文書が群馬県指定史跡を受けている。

剣聖 上泉伊勢守信綱 (1508〜1577※異説あり ) 新陰流開祖

 信綱の家は、俵藤汰こと藤原秀郷(ムカデ退治伝説で有名)の流れを汲む子孫で、上州上泉(前橋市)に居着し、地方豪族として上泉城主となり、鎌倉管領上杉氏の配下に属していた。
 信綱は、少年時代より剣法を志し、鹿島新当流の祖・松本備前守に入門して修行に励み、十七歳の若さで天真正伝神道流の奥義を授けられた。24歳時には、陰流正統を愛洲移香斎久忠から受け継ぎ、やがて、新陰流を開祖することとなる。

 箕輪城主長野業政の属将となり、奮戦し軍功を挙げ、〃上野国一本槍〃の感状をもらい、「長野十六槍の筆頭」と称された。
 業政が没し、業盛が武田信玄に攻め滅ぼされると、信綱は要請を受け信玄のもとへ伺候したが、廻国修行の旅に出て我が剣術流派を広めたいことを告げ、「他家に仕官しない」という条件と引き替えに旅立つ。この時信玄から一字を貰い、名を秀綱から信綱に改めた。

 神後伊豆守宗治・疋田文五郎景兼を供に従え上洛を目指した信綱は、伊勢国司北畠家最後の当主であり、塚原卜伝門下の剣豪大名として名高い北畠具教を訪ねる。 信綱の技が尋常でないことを即座に見抜いた具教は、感心するとともに「ぜひ会ってみられよ」と、大和にいる二人の人物を紹介した。宝蔵院流槍術の祖となる宝蔵院胤栄と当時「畿内随一」と評判の柳生(石舟斎)宗厳である。
信綱と立ち会った胤栄は、ほとんど何もできないままに信綱の袋竹刀(現代の剣道における竹刀の発明者は信綱)に詰められたといい、石舟斎(柳生宗矩の父・柳生十兵衛・利厳{兵庫}の祖父)は、弟子の疋田文五郎と立会い完敗し、信綱一行を柳生の里に招き、入門を乞い、後に「無刀取り」を編み出し、信綱より新陰流皆伝の印可を受ける。
 入京した信綱は、山科言継を再訪し、二条御所で剣豪将軍(室町幕府13代)足利義輝の上覧演武を行い、打太刀を務めた丸目蔵人は、即座に入門を乞うたといい、感服した義輝から「兵法新陰、軍法軍配天下一」の栄えある称号を賜った。
元亀元(1570)年、今度は彼は神後伊豆を打太刀に、正親町天皇の御前で武術としては初めての天覧演武の栄に浴し、さらに従四位下武蔵守に叙せられたのである。

 翌年、信綱は京を去り、故郷上州へと旅立つ。時に信綱64歳のことであった。
その後彼は後妻(北条綱成{相模玉縄城主/小田原北条家筆頭の猛将}の娘)との間にもうけた二人の子有綱・行綱が兵法師範をもって仕えている小田原北条家へと向かったようだ。  そして天正五(1577)年。ついに不世出の剣聖・新陰流開祖・上泉武蔵守信綱は、相模小田原でその前半生は波乱に明け暮れた上州の一小領主として、後半生は高名な武芸者としての生涯を閉じた。享年70歳であった。

 始祖信綱の流派新陰流は実に多士済々の剣豪を輩出、幾多の派生流派を誕生させ、新陰流は日本最大の剣術流儀となり、現在に至るまでなお生き続けている。


 『剣聖』上泉伊勢守信綱の一生については、池波正太郎署「剣の天地」に、高名な小説仕掛人である著者の、円熟の筆を駆使した戦国ロマンの中に、淡々と、川の流れるような自然さで、しかも、生き生きと描かれています。是非、一読をお薦めします。


 上泉伊勢守信綱が考案した袋竹刀(ふくろしない)は、剣の修業で怪我をしたり、命を落とすことがないよう工夫されたもので、信綱の精神は『人を生かす剣』人の命を大切にする、いわば人間愛に貫かれています。


上泉城跡図(縄張り図)
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 関越道前橋IC〜合流/国道17号線〜左折/表町一丁目〜右折/R17
  千代田町〜主要地方道〜左折/桂萓小学校前〜市道・浪華橋〜橋より
  三つ目の十字路を右折〜最初の十字路を右折〜右側の上泉自治会館

駐車場 : 上泉町自治会館の無料駐車場を利用

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