| 関東地方 |
| 相模(神奈川県西部) |
北条早雲築城・難攻不落の関東三要害は何処へいった
| 築城時期: 1513年(永正10) | 築城者: 北条早雲 |
玉縄城址入り口にあたる某女子学園正門付近
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| 遺 構 《 遺構/土塁(諏訪段) ※ ただし、学園敷地内にあるため、見学には学園の許可が必要 》 | |
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戦国相模や小田原北条氏、関東全体の歴史において鍵となる重要性に反比例して、現代の史跡保存のあり方で非常に評価の低い城郭という悪名で有名な城跡ではあるが、それが歴史的に名高い「鎌倉」の地に存在する城址なだけに残念でならない。
玉縄城は関東三要害の一つとして有名でしたが、今は城跡が女子校になっているので、当時にもまして難攻不落で、見学のための開城もしてもらいません。
僅かに、周囲に「早雲台」「城廻」「相模陣」など、当時を偲ばせる地名が残されているのが救いです。
1561年(永禄4)、3代城主北条綱成の代には越後の上杉謙信に玉縄城を包囲されるも子の氏繁がよく守り、謙信は囲みを解いている。
1590年(天正18)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、玉縄城主・北条氏勝は援軍として伊豆山中城に籠もったが、山中城は3月29日、わずか半日で落城し、氏勝は玉縄城に退いた。
徳川家康の関東国替え後、玉縄の領地は家康腹心の本多正信が支配した。以後、水野正忠や松平正綱ら徳川譜代家臣が玉縄城主を歴任し、玉縄藩が成立するが、1703年(元禄16)、松平(長沢・大河内)正久が上総大多喜城に移封となり、戦国時代「玉縄衆」と畏怖され、氏時・為昌・綱成・氏繁・氏舜・氏勝と6代続いた玉縄北条氏の堅城は廃城となった。
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通用門より見た城址遠望
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住宅地化した一角から見た城址遠望
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昭和30年頃の航空写真
(学研「歴史群像シリーズ・戦国北条五代」より転載)
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| 登城アクセス | |
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車 : 横浜新道上矢部IC〜国道1号線〜左折/影取町〜市道〜右折/城廻〜 市道〜すぐ右折/玉縄トンネル手前〜行き止まり(城址) 駐車場 : 駐車場は無し |
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