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関東地方

武蔵(埼玉県)

深谷上杉氏の居城、江戸期には松平忠輝が初封地

深谷城[ふかやじょう] 別称=木瓜城   (平 城) 【所在地】 埼玉県深谷市田谷

 築城時期:  不明  築城者:  上杉(深谷)房憲

ふかや じょう 深谷城址公園の石碑

 遺 構  《 遺構/堀跡  模擬/石垣・城壁 》
 深谷上杉氏の居城だった深谷城は、JR高崎線深谷駅の北方約1キロメートル、市民文化会館や市立図書館ほか、各種の公共施設が建ち並ぶ一帯に所在する。
 現在、城址公園として整備されていて、「深谷城址公園」の石碑が2基設置され、城址には石垣と城壁があるが、これは公園として整備されたときに作られた模擬建造物である。入口の案内解説版に書かれた深谷古城図と現在の城址公園とはあまりにもかけ離れ過ぎてしまっている。

 かつてこの地帯は窪地であり、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地帯に築かれた平城であり、城を囲む深堀の水は、これらの河川の流水などを利用していたものと思われる。
 その面影は城址公園西側に所在する、深谷上杉氏の祈願社であった富士浅間神社の社殿を巡る池と水路に、僅かに往時の姿をとどめるのみである。

 深谷城は、その形姿から「木瓜(ぼけ)城」とも称されたが、城形がボケの花あるえは実の断面に似ていたからだと伝えられている。


 足利氏に対する与力としてこの地に封ぜられた深谷上杉氏は、関東管領(山内)上杉憲顕の六男・憲英が初代で、以後、憲英の子・憲光、憲英の孫・憲信と三代が庁鼻和城に拠り、狭義に分けると、この三代が 庁鼻和上杉氏を名乗り、憲英の曾孫の上杉房憲より以降を深谷上杉氏と称した。

 鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事に端を発した関東地方における内乱である“享徳の乱”(1455/享徳3〜1483/文明14)のさなか、深谷城は、深谷上杉氏4代の房憲が古河公方の侵攻に備えて、築城したと伝えられる。

 深谷上杉氏は、房憲以降、憲清、憲賢と扇谷上杉家と共に武蔵国を割拠していたが、1545(天文14)年、北条氏康との“河越夜戦”において上杉朝定が討死して、扇谷上杉氏が滅亡すると、小田原北条氏の勢力が武蔵に及び、憲英から数えて7代目の憲盛の代に、北条氏に降伏した。

 憲盛の跡を継いだ子の氏憲は、北条氏政の養女を妻とし、北条氏の傘下となった。
 1590(天正18)年の豊臣秀吉による“小田原攻め”では、氏憲は小田原城に立て篭るが、居城の深谷城は重臣の秋元長朝によって開城し、憲英以下8代にわたり北武蔵に君臨した深谷上杉氏は滅亡した。

 小田原征伐後に関東に入国した徳川家康は、譜代の松平(長沢)康直を深谷に入れて1万石を与えた。
康直が没すると、長沢松平家の名跡を家康の子・松千代が継ぎ、松千代が5歳で 早世すると兄の松平(上総介)忠輝が継いだ。
 1902(慶長7)年、忠輝が下総佐倉5万石に転封すると深谷藩は廃藩。

 慶長15年、譜代の松平忠重、さらに酒井忠勝が入り、忠勝は5万石に累進するが、 1626(寛永3)年、武蔵忍城に移封となり、深谷藩は廃藩となり、深谷城も1634(寛永11)年に破却された。

 なお、忠勝は寛永4年に、川越藩主であった父・酒井忠利が死去したため、その跡を継ぎ、川越藩5万石の大名となった。

西側の市立図書館前にある城址公園の碑 富士浅間神社脇に残る唯一遺構の外濠跡の標柱
富士浅間神社東側に残された水濠跡の遺構
この界隈だけが、かろうじて、城址の雰囲気を
僅かに漂わせています

古城図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 関越道花園IC〜右折/国道140号線〜左折/田中北〜県道69号線〜
  城址公園通り〜

駐車場 : 深谷市民文化会館の専用無料駐車場を利用


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