| 関東地方 |
| 武蔵(埼玉県) |
古河公方2代足利政氏・父子反目の果てに隠棲
| 築城時期: 15世紀末 | 築城者: 足利政氏 |
甘棠院を巡る 水堀痕
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| 遺 構 《 遺構/水堀痕 》 | |
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関東公方家を復活させた父・成氏から継承した古河公方2代足利政氏は、「山内VS扇谷」の上杉同族対立のなか、上杉氏の跡継ぎをめぐり、さらに、急速に台頭してきた小田原北条氏に対する対応から嫡子・高基と対立し、二男・義明とも対立し小弓公方として独立されてしまう。
古河公方家の内紛に敗れた政氏は、出家し、さらに自ら開基となって久喜の館に隠居することとなる。のちに高基とは和睦しますが、生涯ここを離れることは無かった。
この政氏が隠棲した館は、現在、「永安山 甘棠院」として埼玉県の東部、久喜市のほぼ中央に、その伽藍を誇っている。山門から一歩境内に入ると白砂が敷き詰められ、正面には二ツ引両とともに堂々たる本堂が聳え、左手には足利政氏の墓と伝えられる宝篋印塔が据えられている。
遺構は結構しっかりしていて、空堀に見えるが、本来は水堀であったという堀痕が甘棠院を囲むような逆コの字状(上が北)に残され3/4周しています。
政氏は、久喜の館に入ると、ここを寺とし「永安山 甘棠院」と称し、自ら開基となり開山には貞巖昌永を据えた。これ以前、武蔵岩付(現在の岩槻)にいたとき出家して法名を道長と名乗っていた政氏にとっては、当然のなりゆきであったかもしれない。
開山導師として迎えられた貞巖和尚については知られることが少なく、政氏の弟という説と、子であるという説とがある。さらに女人であったという説までが飛び出している。しかし貞巖は元亀3(1572)年に没しており、政氏の没年が享禄4(1531)
年7月18日(甘棠院にて逝去)であることから考えると、弟であるよりも子であるとしたほうが妥当であると思われる。
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甘棠院の表門
両側の足利二つ引家紋が誇らしげに、 格式の高さを物語っています |
表門から中門までの長い参道 |
甘棠院の立派な中門
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中門の西側の堀痕
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甘棠院の本堂手前の中雀門 |
足利二つ引の家紋が付く鉄扉越しに本堂を見る
不審火による足利政氏木像の焼失以来、 防犯を厳重にしているそうです 古河公方関係の寺院で残っているのはここだけです |
「逆への字」形の芝生部分は、埋め戻された堀跡の位置を示しています。 平成13年の試掘調査で発見された堀は、幅約3m、 深さ約2mの箱薬研の形状です 位置は裏側(北側)の乳児院の南側です |
足利政氏の墓所に建つ宝篋印塔
丁重に拝観をお願いしたら、夕方にも関わらず 親切に場所まで教えてくれました。 防犯センサーが仕掛けてあるそうです |
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鎌倉公方の生い立ちと、古河公方2代・足利政氏の父子反目の果ての隠遁
かつては逆賊とされ、最近ではその名誉回復がはかられている足利尊氏が天下を取ると、その弟の直義は関東管領に任ぜられ、次いで尊氏の長男・義詮がその跡を継いだ。義詮が尊氏に次いで二代将軍職を継ぐと、尊氏の二男・基氏は、鎌倉へ遣わされ鎌倉公方と称した。 この頃になると鎌倉方の組織も整備され、公方を中心にそれまでの管領職は補佐的な役割となり両上杉家や宅間、犬懸氏が就くことになっていった。 鎌倉公方は初代の基氏から、二代氏満、三代満兼と代を重ねるごとに力を持つようになるが、同時に管領職の上杉家も力を蓄えるようになり、鎌倉公方四代足利持氏の代になると時の幕府も放ってはおけないほど公方の力は強力となる。かつ、関東管領上杉憲実と対立するにいたり、ついに幕府は永享10(1438)年に持氏追討の軍を発した。これがいわゆる「永享の乱」である。
永享11年、足利持氏の自害によって鎌倉公方は滅亡し一時中断するが、持氏には何人かの遺児がおり、このうち春王丸、安王丸の二人は鎌倉を脱出して下総結城の結城城に籠ったが、「結城合戦」によって城は落城、二人は捕らえられて京都に送られる途中で斬首されてしまった。
明応6(1497)年、古河公方足利成氏が没するとその跡を長子・政氏が継いだ。古河公方二代、足利政氏の時代も戦いに明け暮れることとなる。
これら古河公方家の内紛は、関東管領上杉顕定の戦死による関東管領家の後継者争いとも連動していったが、高基派の勢力は強く、下野小山の祇園城に居た成氏もここを追われ武蔵岩附城に入ることになった。
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先人たちの物を大切にし永く伝えていくという習慣が出来ている禅宗の甘棠院には、多くの宗教的色彩の濃いものの他に、政氏関係と思われる貴重な資料となる文化財が残されている。
なかでも、開基政氏、開山貞巖の絹本着色画像は至宝であり、他に、政氏幼年の頃着用と伝わる「縹糸威最上胴丸具足(はなだいとおどしもがみどうまるぐそく)」や、政氏遺愛の「道憲銘 十文字槍」、政氏から円覚寺に宛てた「足利政氏書状」などの宝物が残されている。
上記のほかに、かつて、境内の茅葺きの御霊屋に「足利政氏像 木造」が安置されていたが、残念なことに昭和42年、不審火のために焼失してしまった。
なお、甘棠院にお願いすれば、足利政氏の墓所を「拝観」できます。この「拝観」、または「お参り」させてくださいとお願いするのがポイントで、けっして「見せてくれ」とは言わない事。怒られるそうです(同好の先輩諸氏談)。 |
| 登城アクセス | |
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車 : 東北道久喜IC〜合流/県道3号線〜右折/久喜駅入口(島忠の前)〜 市道〜左折/光明寺手前の大門通り〜突き当たり(甘棠院) 駐車場 : 甘棠院の参拝者駐車場を利用 |
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