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関東地方

武蔵(埼玉県)

古河公方2代足利政氏・父子反目の果てに隠棲

足利政氏館[あしかがまさうじやかた]  (居 館) 【所在地】 埼玉県久喜市本町7丁目2-2・他(甘棠院)

 築城時期:  15世紀末  築城者:  足利政氏

あしかがまさうじ やかた 甘棠院を巡る 水堀痕

 遺 構  《 遺構/水堀痕 》
 関東公方家を復活させた父・成氏から継承した古河公方2代足利政氏は、「山内VS扇谷」の上杉同族対立のなか、上杉氏の跡継ぎをめぐり、さらに、急速に台頭してきた小田原北条氏に対する対応から嫡子・高基と対立し、二男・義明とも対立し小弓公方として独立されてしまう。
 古河公方家の内紛に敗れた政氏は、出家し、さらに自ら開基となって久喜の館に隠居することとなる。のちに高基とは和睦しますが、生涯ここを離れることは無かった。

 この政氏が隠棲した館は、現在、「永安山 甘棠院」として埼玉県の東部、久喜市のほぼ中央に、その伽藍を誇っている。山門から一歩境内に入ると白砂が敷き詰められ、正面には二ツ引両とともに堂々たる本堂が聳え、左手には足利政氏の墓と伝えられる宝篋印塔が据えられている。
 元来、館であったが、政氏が隠居して館を寺としたもので、城館というより格式ある寺であります。高貴な身分の公方を辞して隠居したものだから、構えを城館風にしたと思ってもらえればよいと思います。

 遺構は結構しっかりしていて、空堀に見えるが、本来は水堀であったという堀痕が甘棠院を囲むような逆コの字状(上が北)に残され3/4周しています。
 本堂裏側の北側には、この館の特徴である凸形の箱薬研堀があるということですが、鬱蒼とした山林は、一帯が白鷺の一大営巣地となっており、鉄条網で囲われているため立ち入りできません。


甘棠院(かんとういん)の開基と開山

 足利政氏が隠棲した久喜の館について、その構築年代は不明であるが、十五世紀後半に、太田荘防備のために古河公方初代・足利成氏か、その家臣によって築かれたものであるという。
 この館は北方に利根川が流れ、高基のいる古河(古河公方館)とは水路で結ばれていたといわれ、さらに高基派の武蔵菖蒲城武蔵幸手城(埼玉県幸手市)の間にあるため、高基からの監視は行き届くわけである。

 政氏は、久喜の館に入ると、ここを寺とし「永安山 甘棠院」と称し、自ら開基となり開山には貞巖昌永を据えた。これ以前、武蔵岩付(現在の岩槻)にいたとき出家して法名を道長と名乗っていた政氏にとっては、当然のなりゆきであったかもしれない。

 開山導師として迎えられた貞巖和尚については知られることが少なく、政氏の弟という説と、子であるという説とがある。さらに女人であったという説までが飛び出している。しかし貞巖は元亀3(1572)年に没しており、政氏の没年が享禄4(1531) 年7月18日(甘棠院にて逝去)であることから考えると、弟であるよりも子であるとしたほうが妥当であると思われる。

甘棠院の表門
両側の足利二つ引家紋が誇らしげに、
格式の高さを物語っています

表門から中門までの長い参道
甘棠院の立派な中門 中門の西側の堀痕

甘棠院の本堂手前の中雀門
足利二つ引の家紋が付く鉄扉越しに本堂を見る
不審火による足利政氏木像の焼失以来、
防犯を厳重にしているそうです

古河公方関係の寺院で残っているのはここだけです
「逆への字」形の芝生部分は、埋め戻された
堀跡の位置を示しています。
平成13年の試掘調査で発見された堀は、幅約3m、
深さ約2mの箱薬研の形状です

位置は裏側(北側)の乳児院の南側です
足利政氏の墓所に建つ宝篋印塔
丁重に拝観をお願いしたら、夕方にも関わらず
親切に場所まで教えてくれました。
防犯センサーが仕掛けてあるそうです

鎌倉公方の生い立ちと、古河公方2代・足利政氏の父子反目の果ての隠遁

 かつては逆賊とされ、最近ではその名誉回復がはかられている足利尊氏が天下を取ると、その弟の直義は関東管領に任ぜられ、次いで尊氏の長男・義詮がその跡を継いだ。義詮が尊氏に次いで二代将軍職を継ぐと、尊氏の二男・基氏は、鎌倉へ遣わされ鎌倉公方と称した。
 この頃になると鎌倉方の組織も整備され、公方を中心にそれまでの管領職は補佐的な役割となり両上杉家や宅間、犬懸氏が就くことになっていった。
 鎌倉公方は初代の基氏から、二代氏満、三代満兼と代を重ねるごとに力を持つようになるが、同時に管領職の上杉家も力を蓄えるようになり、鎌倉公方四代足利持氏の代になると時の幕府も放ってはおけないほど公方の力は強力となる。かつ、関東管領上杉憲実と対立するにいたり、ついに幕府は永享10(1438)年に持氏追討の軍を発した。これがいわゆる「永享の乱」である。

 永享11年、足利持氏の自害によって鎌倉公方は滅亡し一時中断するが、持氏には何人かの遺児がおり、このうち春王丸、安王丸の二人は鎌倉を脱出して下総結城の結城城に籠ったが、「結城合戦」によって城は落城、二人は捕らえられて京都に送られる途中で斬首されてしまった。
 持氏の遺族や遺臣たちの動きはこれによって抑えられたかにみえたが、嘉吉元(1441)年、将軍足利義教が赤松満祐に誘殺されるいわゆる「嘉吉の乱」が起こると、再び遺族や遺臣は公方復活へと動き始めた。それは持氏の末子・万寿王丸を公方にしようとするもので、幕府もついに文安4(1447)年、万寿王丸が公方を継ぐことを認めたので、彼は鎌倉に帰還し、将軍義成(後の義政)の一字を得て成氏と名乗ったのである。また鎌倉公方を補佐する関東管領には上杉憲実の子・憲忠が就任した。
 鎌倉の体制はここで一応整ったかにみえたが、やがて、成氏が父・持氏以来のつながりから、宇都宮・小山・結城といった北関東の豪族と接近していくことに対し、憲忠の被官・長尾景仲や太田資清らと、小山・千葉・宇都宮氏らとの間でいわゆる「江の島合戦」が起こり、関東は戦乱の巷と化していく。この合戦は幕府の仲介によって和解されたが、対立は収まらず享徳3(1450)年、成氏は憲忠を謀殺し、鎌倉における上杉方勢力の一掃を企てた。世に言う「享徳の乱」である。その結果、成氏は将軍の追討を受けることになり、下総の古河に逃れてそこを本拠とし、以来古河公方と呼ばれることになる。
 一方、憲忠の後継者に弟の房顕を擁立した上杉方は幕府に救援を要請し、幕府は成氏を朝敵とし、将軍の弟・政知を「鎌倉公方」として関東に遣わした。しかし、政知は鎌倉に入れず伊豆堀越に留まったので「堀越公方」と呼ばれた。
 成氏と上杉方との戦いはこの後も各地で続いたが、文明14(1482)年、越後上杉氏の労により和睦された。これを「都鄙(とひ)の和睦」といい、これによって約30年間続いた「享徳の乱」は一応の決着をみたのである。

 明応6(1497)年、古河公方足利成氏が没するとその跡を長子・政氏が継いだ。古河公方二代、足利政氏の時代も戦いに明け暮れることとなる。
山内上杉氏と扇谷上杉氏との対立が激化し、やがて、山内と扇谷の両家は、関東管領の座をめぐって数十年にわたり抗争を続けた「長享の乱」へと発展していった。
 同時にこの頃は、北条早雲が間隙を縫って関東へ進出し始めたときでもあった。更に加えて、長子・高氏(後の高基)と不和を生じ、高氏は下野宇都宮に走って父・政氏と対立することとなり、その弟・義明も父や兄と仲が悪く、下総小弓に拠って「小弓御所」と称するにいたり古河公方の力は三分される形となってしまった。

 これら古河公方家の内紛は、関東管領上杉顕定の戦死による関東管領家の後継者争いとも連動していったが、高基派の勢力は強く、下野小山の祇園城に居た成氏もここを追われ武蔵岩附城に入ることになった。
 政氏はここで出家し、法名を道長とと名乗っている。それから2年、やがて政氏は高基と和解し、古河公方三代を譲るとともに、みずからは久喜の舘に隠退したのである。時に永正15(1518)年のことであった。

 先人たちの物を大切にし永く伝えていくという習慣が出来ている禅宗の甘棠院には、多くの宗教的色彩の濃いものの他に、政氏関係と思われる貴重な資料となる文化財が残されている。
 なかでも、開基政氏、開山貞巖の絹本着色画像は至宝であり、他に、政氏幼年の頃着用と伝わる「縹糸威最上胴丸具足(はなだいとおどしもがみどうまるぐそく)」や、政氏遺愛の「道憲銘 十文字槍」、政氏から円覚寺に宛てた「足利政氏書状」などの宝物が残されている。

 上記のほかに、かつて、境内の茅葺きの御霊屋に「足利政氏像 木造」が安置されていたが、残念なことに昭和42年、不審火のために焼失してしまった。
以来、お寺さん側でも防犯には神経質になっているそうで、甘棠院の什宝のうち一部を除いてその大半は埼玉県立博物館に寄贈・預託されているという。

 なお、甘棠院にお願いすれば、足利政氏の墓所を「拝観」できます。この「拝観」、または「お参り」させてくださいとお願いするのがポイントで、けっして「見せてくれ」とは言わない事。怒られるそうです(同好の先輩諸氏談)。

登城アクセス
 車  : 東北道久喜IC〜合流/県道3号線〜右折/久喜駅入口(島忠の前)〜
  市道〜左折/光明寺手前の大門通り〜突き当たり(甘棠院)

駐車場 : 甘棠院の参拝者駐車場を利用

久喜市公式HPへリンク
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