北陸地方
加賀(石川県南部)
優雅にして風雅、白銀輝く加賀百万石・前田家の居城

金沢城[かなざわじょう]
別称=尾山城・尾山御坊 (平山城) 【所在地】 石川県金沢市丸の内

築城時期 :  1546(天文15)年 築城者 :  加賀尾山御坊

かなざわ じょう

その繊細にして優美な姿は名城中の名城と謳われる
鉛瓦と海鼠壁が印象的なその姿は、
大藩の風格を感じさせる
利家とまつが礎を築いた、気品に満ちた城郭を歩いてみよう

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・堀・井戸  現存/櫓・城門・長屋  復元/櫓 》
 「百万石の城下町」のシンボル金沢城跡は、明治以降は一貫して国の所有となる。
戦前には第九師団司令部、戦後は金沢大学の用地であったこと、決定的な戦災に遭わなかったことなどが幸いし、同城の基本プラン(縄張)は破壊を免れ、今日に至っている点は注目すべきである。

 城の顔ともいうべき天守など主要なものは残っておらず、わずかに石川門、三十間長屋のほか、海鼠壁や石垣などの現存遺構が知られる。石川門などの鉛瓦は鉄砲玉への転用を目したともいわれる。
 城内各所の石垣遺構には、野面積み、打込ハギ、切込ハギなどの石積技術が見られ、築造、修築の時期を知る手がかりとなる。石の刻印は割普請(築城普請を何名かで分担して行うこと)がなされたことを伺わせる。
 金沢大学の移転に伴い、国から県に払い下げられ、平成13年には菱櫓、五十間多聞長屋、橋爪門、橋爪門続櫓を復元。
現在も調査・研究は継続中で、新たな遺構の復元に関心が寄せられている。


◇◇ 金沢城ものがたり ◇◇

利家、右近、利常が築いた百万石の城

 金沢城は、本丸を尾山という丘の頂部に置き、二の丸、三の丸、新丸、城下町と、雛壇状に北側と東側に配している。
平山城という形式で、一二三段式(頂部に本丸、中腹に二の丸、麓に三の丸を配したもの)の階郭式縄張の城郭である。

■ 「百姓の持ちたる国」の牙城
 金沢城の成り立ちは、大坂城と同じ軌跡をたどっている。豊臣秀吉が築いた大坂城は、石山本願寺の跡地だが、前田利家が本格的に構築した金沢城も、金沢御堂(尾山御坊ともいう)の跡地なのである。いずれも一向宗(浄土真宗)の寺院を襲ってつくられており、寺院から城郭への変貌であった。

 大坂の石山本願寺は、本願寺八世の蓮如によって開かれたが、金沢御堂も蓮如が越前(福井県)吉崎にいたとき、加賀(石川県)の一向宗門徒の中心として開創したという伝承がある。加賀は国人衆(在地の武士)と坊主衆、さらに農民衆が長享2(1488)年、守護大名の富樫政親を滅ぼして以来、「百姓の持ちたる国」として、実に百年にわたって一向宗門徒が支配してきた。この加賀の一向一揆の拠点となったのが、尾山と呼ばれたのちの金沢城の地なのである。

 南から織田軍、北からは上杉軍に挟まれた金沢御堂であったが、謙信が急死し、大坂の石山本願寺が信長に降伏すると、織田軍は柴田勝家の指揮のもとに怒涛の如く北加賀に侵攻、金沢御堂を攻め落とした。
 柴田勝家は、この金沢御堂の地に甥の佐久間盛政を置いて加賀の固めとした。やがて織田軍が越中半国と能登を制すると、越前府中城(福井県越前市)の前田利家には能登が与えられた。利家は七尾城(のちに小丸山城)を拠点とし、佐々成政は富山城に拠って、上杉景勝に対した。

■ 佐久間の尾山城から利家の金沢城へ
 織田信長から改めて北加賀二郡を与えられた佐久間盛政は一向衆門徒の影響と記憶を消し去ろうとしたのか、金沢御堂の名を廃し、尾山城とした。盛政は尾山城に惣構、一の曲輪、二の曲輪などの濠や土塁をめぐらせて、城郭としての原形を築いた。
 佐久間盛政は柴田勝家の妹の子だが、若年より勇猛果敢でたびたび軍功をあげ、「鬼玄蕃」とい呼ばれて畏れられた。“賎ヶ岳の合戦”で先鋒を務めた盛政は、功を焦るあまり突出して、柴田軍の敗走を招いた。盛政は敗走の途中で捕われ、斬首。盛政の尾山城在城は、わずか四年であった。

 越前北の庄城の柴田勝家を葬り去り、秀吉軍の先鋒として進撃する前田利家の前に、尾山城は戦わずして開城。秀吉は利家の協力に報えるために、能登と加賀二郡を与え、尾山城を居城とさせた。天正11(1583)年4月、利家46歳のときのことである。
 尾山城に入城した利家は、これを金沢城と改名して、石垣や堀の構築を進めた。だが、越中の佐々成政が秀吉に敵意をみせ、利家の領内に侵攻する機会を窺っていたために、加賀と越中の国境警備に忙殺され、完全な城郭を構築するまでにはいたらなかった。
やがて、秀吉の援軍を得て佐々成政を降伏させると、さらに越中三郡が加増され、ここに前田家百万石の礎が築かれた。その後、利家は豊臣政権の重鎮として、秀吉の側近くに詰めていたため、金沢城の構築はなかなか進まない。そんな折、思わぬことで、軍略と城づくりに長けた人物と出会うことになる。高山右近である。

■ 流浪のキリシタン大名が行なった縄張
 キリシタン大名の高山右近は、秀吉の棄教令を拒んで流浪していた。利家は秀吉の弟の秀長と語らって、右近を客将として加賀に招く。天正16(1588)年、右近は加賀にキリスト教会を建てることを条件に、利家の誘いに応じたという。
 右近は金沢城を本格的な城郭とするために縄張をし、城外を取り巻く内堀を巡らせる。また城地を拡張して新丸を設け、大手門をつくった。
 利家の死去直後、権力の掌握に牙を剥いた徳川家康は、秀吉の遺児秀頼を支える利家の息子・2代金沢城主の利長に謀反の疑いをかけて、その勢力を削ごうとした。 家康が金沢を攻めるという噂が流れると、右近は、東西の惣構堀を掘って備えたといわれる。

 利長は母親のまつ(芳春院)を人質として江戸に送り、この窮地を脱した。また利長は、異母弟の利常の正室に、2代将軍秀忠の娘珠姫(天徳院)を迎え、徳川家との紐帯を深めた。
 慶長5(1600)年の“関が原の戦い”で、徳川方に与した利長は、その功により加賀・能登・越中の百二十万石が与えられた。そして金沢城はその石高にふさわしい城づくりが行なわれていく。
 その後も右近は、利長に仕えて軍功をあげ、利長の隠居城高岡城を築いたりするが、“大坂の陣”の前に出された徳川幕府のキリスト教禁令によって国外追放となり、フェリピンのマニラで病死する。

■ 芳春院を厚く遇した奔放不羈な三代目
 高山右近に代わって金沢城を構築したのは、篠原出羽守一孝であった。篠原一孝は芳春院まつの血族であることから、軍事機密である城づくりを託すには適切な人物であった。
 金沢城は、その地形的な関係からしばしば落雷に見舞われ、火災に遭っている。慶長7(1602)年には天守に落雷して、本丸などが焼失。以後、天守は再建されず、三層の櫓が建てられて代用された。同15(1610)年、一孝は外堀を掘り、犀川から水を引いて防火水を兼用させた。

 慶長19(1614)年、に利長が死去すると、15年の長きにわたって江戸で人質になっていた芳春院が金沢に戻ってきた。3代を継いだ利常は、芳春院を東の丸において、手厚くもてなした。芳春院には利長と利政の二人の男子がおり、子に恵まれない利長のあとは、弟の利政が継ぐはずであった。ところが、関が原の合戦で兄利長に逆らったため、利政は能登の所領を没収された。代わって利長の後継ぎとなったのが、異母弟(利家と側室・千世との子)の利常である。

 加賀藩3代の利常は、奔放不羈な性格で、幕府の目を恐れることなく城の改築をした。そのため3代将軍家光の姉で、利常の正室の珠姫(天徳院)の心労は絶えなかった。その一方で利常は、幕府の疑心をかわすために鼻毛を長くのばして、呆けたような振る舞えをしたともいう。
 寛永16(1639)年、城普請などでたびたび幕府から嫌疑をかけられていた利常は、金沢城を長男の光高に譲り、小松城に隠居した。このとき、二男の利次には富山城10万石、三男の利治には大聖寺城7万石を分与した。

■ 「加賀文化」を育んだ藩主たち
 4代藩主の光高は、城内に徳川家康を祀る東照宮を建立し、徳川家と縁戚になろうと努めるが、在職7年で早世。代わって5代藩主の座についたのが、わずか3歳の綱紀である。綱紀は、3代将軍家光から8代将軍吉宗までの、実に78年の長きにわたって加賀藩に君臨した。
 綱紀は、岳父(妻の父)で会津藩主の保科正之(3代将軍家光の異母弟)の助言を得て、藩政と民政を整備し、幕府と微妙な関係にあった加賀藩を、5代将軍綱吉とその生母桂昌院の機嫌を伺え、御三家に準じる親藩に好転させることに成功した。
また美術工芸や芸人などの一流人を京都から招き、独自の「加賀文化」を生み出した。さらに学問を好んで、当代一流の学者と親交し、和漢の古典の収集と保存に尽力している。

 今日、日本三大名園の一つに数えられる兼六園は、12代藩主斉広が隠居所として築いた。豪壮な竹沢御殿の庭である。また兼六園を完成させ、その中に成巽閣を建てたのが、13代斉泰であった。
 徳川家に追従し、太平を貪った加賀藩は、幕末の激動期に乗り遅れ、14代慶寧のときに明治維新を迎える。

 金沢城はたびたびの火災に遭ったものの、利家入城以来三百年、一度も戦火の洗礼を受けることはなかった。太平の世を十分に満喫した城が、金沢城であったといえよう。

前田利家銅像


(金沢城公園ホームページ「ギャラリー金沢城」の画像を借用)

登城アクセス
 車  : 北陸道金沢東IC〜合流/国道8号線〜左折/田中〜直進突き当たり・
  右折/東山〜国道159号線〜左折/橋場〜市道〜右折/大手町南〜
  突き当たり・左折〜兼六園下

駐車場 : 城址および兼六園周辺の有料駐車場を利用


「石川県金沢城と兼六園のホームページ」へリンク

■  金沢城巡り1 (金沢城の概要)・(金沢城ものがたり)
■  金沢城巡り2 (搦手口・石川門〜外周〜大手門〜新丸〜北の丸〜三の丸〜二の丸)
■  金沢城巡り3 (二の丸・橋爪門〜鶴の丸〜東の丸〜本丸附壇〜本丸)
■  金沢城巡り4 (石垣)・(兼六園)・(前田家歴代藩主墓地/野田山)

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