別称=尾山城・尾山御坊 (平山城) 【所在地】 石川県金沢市丸の内
| 築城時期 : 1546(天文15)年 | 築城者 : 加賀尾山御坊 |
その繊細にして優美な姿は名城中の名城と謳われる
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・石垣・堀・井戸 現存/櫓・城門・長屋 復元/櫓 》 |
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「百万石の城下町」のシンボル金沢城跡は、明治以降は一貫して国の所有となる。
戦前には第九師団司令部、戦後は金沢大学の用地であったこと、決定的な戦災に遭わなかったことなどが幸いし、同城の基本プラン(縄張)は破壊を免れ、今日に至っている点は注目すべきである。
城の顔ともいうべき天守など主要なものは残っておらず、わずかに石川門、三十間長屋のほか、海鼠壁や石垣などの現存遺構が知られる。石川門などの鉛瓦は鉄砲玉への転用を目したともいわれる。
◇◇ 金沢城ものがたり ◇◇
利家、右近、利常が築いた百万石の城
金沢城は、本丸を尾山という丘の頂部に置き、二の丸、三の丸、新丸、城下町と、雛壇状に北側と東側に配している。
■ 「百姓の持ちたる国」の牙城
大坂の石山本願寺は、本願寺八世の蓮如によって開かれたが、金沢御堂も蓮如が越前(福井県)吉崎にいたとき、加賀(石川県)の一向宗門徒の中心として開創したという伝承がある。加賀は国人衆(在地の武士)と坊主衆、さらに農民衆が長享2(1488)年、守護大名の富樫政親を滅ぼして以来、「百姓の持ちたる国」として、実に百年にわたって一向宗門徒が支配してきた。この加賀の一向一揆の拠点となったのが、尾山と呼ばれたのちの金沢城の地なのである。
南から織田軍、北からは上杉軍に挟まれた金沢御堂であったが、謙信が急死し、大坂の石山本願寺が信長に降伏すると、織田軍は柴田勝家の指揮のもとに怒涛の如く北加賀に侵攻、金沢御堂を攻め落とした。
■ 佐久間の尾山城から利家の金沢城へ
越前北の庄城の柴田勝家を葬り去り、秀吉軍の先鋒として進撃する前田利家の前に、尾山城は戦わずして開城。秀吉は利家の協力に報えるために、能登と加賀二郡を与え、尾山城を居城とさせた。天正11(1583)年4月、利家46歳のときのことである。
■ 流浪のキリシタン大名が行なった縄張
利長は母親のまつ(芳春院)を人質として江戸に送り、この窮地を脱した。また利長は、異母弟の利常の正室に、2代将軍秀忠の娘珠姫(天徳院)を迎え、徳川家との紐帯を深めた。
■ 芳春院を厚く遇した奔放不羈な三代目
慶長19(1614)年、に利長が死去すると、15年の長きにわたって江戸で人質になっていた芳春院が金沢に戻ってきた。3代を継いだ利常は、芳春院を東の丸において、手厚くもてなした。芳春院には利長と利政の二人の男子がおり、子に恵まれない利長のあとは、弟の利政が継ぐはずであった。ところが、関が原の合戦で兄利長に逆らったため、利政は能登の所領を没収された。代わって利長の後継ぎとなったのが、異母弟(利家と側室・千世との子)の利常である。
加賀藩3代の利常は、奔放不羈な性格で、幕府の目を恐れることなく城の改築をした。そのため3代将軍家光の姉で、利常の正室の珠姫(天徳院)の心労は絶えなかった。その一方で利常は、幕府の疑心をかわすために鼻毛を長くのばして、呆けたような振る舞えをしたともいう。
■ 「加賀文化」を育んだ藩主たち
今日、日本三大名園の一つに数えられる兼六園は、12代藩主斉広が隠居所として築いた。豪壮な竹沢御殿の庭である。また兼六園を完成させ、その中に成巽閣を建てたのが、13代斉泰であった。
金沢城はたびたびの火災に遭ったものの、利家入城以来三百年、一度も戦火の洗礼を受けることはなかった。太平の世を十分に満喫した城が、金沢城であったといえよう。
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前田利家銅像
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(金沢城公園ホームページ「ギャラリー金沢城」の画像を借用) |
| 登城アクセス | |
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車 : 北陸道金沢東IC〜合流/国道8号線〜左折/田中〜直進突き当たり・ 右折/東山〜国道159号線〜左折/橋場〜市道〜右折/大手町南〜 突き当たり・左折〜兼六園下 駐車場 : 城址および兼六園周辺の有料駐車場を利用 |
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■ 金沢城巡り1 (金沢城の概要)・(金沢城ものがたり)
■ 金沢城巡り2 (搦手口・石川門〜外周〜大手門〜新丸〜北の丸〜三の丸〜二の丸) ■ 金沢城巡り3 (二の丸・橋爪門〜鶴の丸〜東の丸〜本丸附壇〜本丸) ■ 金沢城巡り4 (石垣)・(兼六園)・(前田家歴代藩主墓地/野田山) |