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北陸地方

能登(石川県北部)

加賀百万石の礎となった大きな戦い、「末森城の戦い」

能登 末森城[すえもりじょう]  (山 城) 【所在地】 石川県羽咋郡宝達志水町竹生野(末森山)

築城時期:  不明 築城者:  土肥親真か?

すえもり じょう 城址への進入口
この陸橋の下を国道159号線(押水バイパス)が横切っています

 遺 構  《 遺構/曲輪・空堀・竪堀 》

 末森城跡は、旧押水町の北部に位置し、海岸線の距離がもっと狭まった標高138.8mの末森山に所在する、中世の連郭式山城です。

 地図を見ると一目瞭然ですが、石川県の能登と加賀の間の一番細い部分あたり、 現在でも、国道159号線と249号線が縦走しており、国道471号線も近くを走っています。159号線は金沢から七尾市へと、249号線は奥能登へと通じています。471号線はお隣の富山県へと続きます。
 このように加賀、能登、越中の三国を結ぶ拠点がここ末森城跡であり、この地方の要衝であったわけです。

 上の駐車場のある城址進入口の陸橋から、およそ、二の丸までが15分、本丸までが約20分で登りきれます。

 本丸からは、間近に海岸・日本海が見渡せ、往時は、物見台から四方に睨みを効かせることが出来たことでしょう。 


 末森城は、畠山氏家臣であった土肥親真によって築城されたとされるが、詳しくは不明である。

 1577(天正5)年、能登七尾城を落城させた上杉謙信が織田軍北上の報を受け、南下して末森城を落とし、更に松任城に進軍し、柴田勝家らの率いる織田軍を急襲して敗走(“手取川の戦い”)させている。
 天正8年に、加賀一向一揆を鎮圧した織田軍団の柴田勝家が侵攻してくると土肥氏は降伏し、この地に再び配された土肥氏は、前田利家の妻・芳春院(まつ)の姪を娶って、この地を支配することになった前田氏の与力的立場となった。

 利家は、加賀と能登を分断されかねない要衝である末森城に重臣の奥村永福を配し、城の増修築を施した。
 豊臣秀吉と徳川家康が対立した“小牧・長久手の戦い”を機に、秀吉嫌いの越中・佐々成政は家康に同調して、1584(天正12)年、版図を広げんとし、1万5千の大軍を率いて末森城を攻囲した。
 大軍を相手に落城寸前までいった末森城は、城将奥村永福の懸命の抵抗と、金沢城より駆けつけた利家の援軍により、狼狽した成政軍は越中に軍を退いた(“末森城の戦い”)。

 1615(元和元)年の一国一城令により廃城となる。なお、本丸主門は、金沢城鶴の丸南門として移築されていたが、1759(宝暦9)年の出火によって焼失してしまったという。

表掲画像の橋の上から下の国道159号線を見る
大きな案内看板があるのですぐにわかります
道路脇の下の駐車場
大河ドラマ記念で作られた綺麗な説明板があります 
城址進入口まで車にて行かれます
下の駐車場脇の入り口、案内板が出ています
城址への進入口
ここまで車で行けます。駐車スペースと案内板があります
「末森山古戦場」の石碑
大河ドラマを記念して建立、「末森城」の
大きな看板の後ろにあります
登城路
ほとんどが舗装していない凸凹道で、
前夜の雨で滑りやすくなっていました
二の丸跡への虎口
かなり下草が伸びていて判りづらいです
二の丸跡
草が生い茂っていて標柱なども埋まっていました
本丸跡
西方に千里浜なぎさドライブウェーの日本海が
間近に見えました
若宮丸跡

イラスト風鳥瞰図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 能登有料道路今浜IC〜右折/町道〜左折/サークルK前〜国道249
  号線〜左折/ミスタータイヤマン前T字路〜国道471号線〜国道159号線
  突き当る手前左側に末森城の看板あり

駐車場 : 末森城の専用無料駐車場を利用

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