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ザ・登城

北陸地方

能登(石川県北部)

能登守護畠山氏の本城、日本五大山城の一つ

能登 七尾城[ななおじょう] 別称=松尾城 (山 城) 【所在地】 石川県七尾市古城町

築城時期:  不明 築城者:  畠山氏

ななお じょう 調度丸付近の桜馬場の五段石垣

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・土塁・空堀  移築/城門 》

 七尾城は、七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高310mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする幾筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城である。「七尾」という名は「七つの尾根」から由来されるという。

 もともと、能登守護職にあった畠山氏代々の居城であった七尾城は、日本五大山城の一つ(他には、越後春日山城近江小谷城・観音寺城[滋賀県蒲生郡安土町]・月山冨田城[島根県安来市広瀬町])にも数えられています。
 遺構としてはかなり規模の大きな石垣が残されており、この城を訪ねるものを圧倒します。更に、本丸跡に立つと、眼下には現在の七尾市街が広がり、さらにその向こうの富山湾までも一望のもとに出来る、絶景の展望スポットでもあります。

 城域は本丸・二の丸・三の丸・西の丸・調度丸・遊佐屋敷・温井屋敷・寺屋敷・桜の馬場などと呼ばれる曲輪群が、山麓に延びた低い尾根の先まで広がっており、本丸から三の丸の間が主要曲輪で、主要部の重要な箇所には、全て石垣が使用され、織豊期の特色を色濃く残した城であります。
 石垣はほとんど北面に積まれています。ただし、高石垣は見られず、高く積む場合は、2m程度の低石垣を数段に積み上げることによって対処しています。石材も大型石材は少なく、自然石を使用した野面積みが大部分です。

 七尾城へは麓から車で一気に行くことが出来、本丸真下の駐車場から本丸跡までは約20分程度ですが、本来の大手道である山道の土の上を歩いて、この城の持つ古城感溢れる景観を感じて頂きたいと思います。勾配は少し急な箇所もありますが、およそ一時間程度で登りきれます。麓に「七尾城史資料館」があります。


 七尾城の築城時期については定説がありませんが、室町幕府の名門であり、三管領の一つでもあった畠山氏(他の、細川氏・斯波氏との三者が交代で就任)の満慶が初代能登守護職に就任し、4代義元以降に城は本格的に築城・改修が行われたのではないかとされています。

 累代の居城として、独自の畠山文化とともに栄えてきた能登畠山氏ですが、戦国乱世のさなか、内紛により8代義綱は追放されてしまい、家臣間の権力争いの渦中、城主として形だけの姿で据えられていた9代義隆は、実権を取り戻そうとして家臣建から暗殺されてしまう。

 元の守護職に返り咲こうとして、越後の上杉謙信を頼った義綱の行動は、当時、上洛を図り能登国を確保したい謙信に、能登侵攻の名目を与えてしまい、1577(天正5)年、破竹の勢いで侵攻する謙信によって、孤立化した七尾城は包囲されてしまう。
 城内に起きた流行り病により幼い城主・春王丸が死亡、また、謙信の内応に応じた遊佐続光らの手により、断固死守派の長続連一族が暗殺され、攻めあぐねた謙信のまえに、能登の堅城七尾城は落城した。

 その後暫く、上杉氏に支配されていましたが、1581(天正9)年、織田信長による北陸制圧後に能登一国を与えられた前田利家は七尾城を居城とし、翌10年から利家により大規模な改造が実施された。
 暫く利家の子の利政が城主となっていたが、港に程近く平地の小丸山城に拠点を移したため、1589(天正17)年、七尾城は廃城となった。

七尾城史資料館近くの駐車スペース
早朝到着のため、ソォッと、静かに周辺を探索…
これより徒歩にて大手道を登る
直進すると蔵屋敷跡、右折して
七尾城跡大手道への案内標識が…
 
登り口には、いろいろな石碑が建っています 長坂
城下よりの登り口を赤坂口といい、往時は門が設けられ、
これより先、一般人の通行は禁じられていた
時鐘跡
城内、城下へ、鐘を鳴らして時刻を知らせたという
七曲り
急なヘアピンカーブが連続し、
周辺の山道両側は急峻な谷につながっている
安寧寺跡
現在は、畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で滅んだ武士達の慰霊碑などがもうけてあります
沓掛場
ここで身なりなどを整えたという。ここから本丸まで600m
三の丸の袴越 三の丸跡
かなりの広さがあります
三の丸から二の丸への谷越え通路 二の丸虎口手前の通路階段
二の丸跡
尾根の分岐点であり、三方を絶壁に囲まれる自然地形
を巧みに利用した要害で、周囲をたくさんの曲輪が
取り巻いている

二の丸跡より北東の富山湾方向を眺望する
二の丸石垣 温井屋敷跡の九尺石
城の鎮護のかなめ石。石の大きさにちなんだ名称です
調度丸跡
弓矢などの武具を整えた場所で、
多数の出土品がここで発見されているという

本丸下の遊佐屋敷跡に至る大手虎口石段
遊佐屋敷跡西面の石垣 本丸跡への西側虎口部の石垣(下段)
本丸跡への西側虎口部の登り石垣(上段) 本丸跡より北方の七尾湾方向を眺望する
本丸跡に建つ城址碑 本丸跡南端の一段高い部分に建つ城山神社
内部より見た本丸跡南西角の搦手虎口 本丸跡西側の土塁
本丸跡北側の虎口部石垣を見る 数段に積まれた本丸跡石垣の最高所先端部分
奥は、虎口石段の登り石垣です

前述の本丸跡西側土塁の裏側には石垣か積まれています
「樋(とよ)の水」と呼ばれる湧水
三の丸・二の丸の城塁下の通路を通って
寺屋敷に向かう途中にあり
城址駐車場から桜の馬場下の石垣群に至る途中の
調度丸付近の通路

木材チップが敷き詰められ、たいへん歩き易いです

桜の馬場下の、感動の石垣群をもう一度!




能登畠山氏七尾の歴史 畠山義綱 殿 私的能登畠山家研究サイト!、です
越後の虎 やーたろー 殿 越後勢の軌跡と史跡を丹念に掲載しています

この城を奪った上杉謙信は眺めの良さに感嘆!

 能登の景勝の地に築かれた「難攻不落」といわれた名城は、力攻めをあきらめて兵糧攻め策をとる上杉軍のまえに、城内に不和もあって、天正5年9月15日、ついに落城した。

 この城を奪い取った上杉謙信は、能登での戦勝を長尾房景に報じた手紙で、「城に登って景色を眺めると、なるほど、聞き及んでいた通り、加越能随一の名地であり、絵にも描けない景勝である」と、城からの眺めを誉め称えている。
 頼山陽の『日本外史』には、、謙信が七尾城中で名月を愛でて吟じたという漢詩「十三夜」が収められている。

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁、月三更
越山併せ得たり、能州の景
さもあらばあれ、家郷の遠征を懐ふ

軍神“参上!”


 名月の九月十三日夜にはまだ七尾城は開城しておらず、この詩は後世、だれかが謙信に仮託して作ったものだろうが、その雰囲気を余すところ無く伝えている詩であることは間違いなく、当時の謙信(48歳/死去する前年)の気概をよく表している。
 今でも、この城址に立って、その風景を望み、往時に想いを馳せれば、誰しも、歴史の息吹と能州の景とを併せ得たり、という気分になることであろう。

鳥瞰図
(現地案内板より)


移築 七尾城搦手門
所在地 : 小丸山城の北西隣の西光寺
住 所 : 七尾市小島町ハ148

登城アクセス
 車  : 能登有料道路徳田大津JC〜田鶴浜道路〜田鶴浜IC〜合流/国道249
  号線〜左折/平安閣前〜県道2号線〜右折/小丸山〜国道249号線〜
  右折/川原町〜国道159号線〜左折/城山登山口〜市道〜道なりに山道を登
  る〜本丸下

駐車場 : 七尾城本丸下の専用無料駐車場を利用

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