| 北陸地方 |
| 越中(富山県) |
桓武平氏千葉氏の一族椎名氏が居城とした越中国最大級の山城
越中
| 築城時期: 1335(建武2)年頃か? | 築城者: 越中守護普門氏か? |
本丸跡 から南東方向を眺望する 奥の山々は立山連峰です 本丸跡は、松倉山(鹿熊山)の山頂近く(標高418.5m)に位置しています |
| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁・石垣・堀切 》 | |
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松倉城と呼ばれる城郭には、飛騨松倉城(岐阜県高山市)、尾張松倉城(愛知県一宮市[旧/葉栗郡]※現/岐阜県各務原原市)と、この越中松倉城の三ヶ所が著名です。
越中松倉城は、松倉山(鹿熊山)の山頂(標高430.9m)に位置する連郭式の山城です。本丸跡には多くのヤマザクラが植えられていて(富山さくらの名所50選にも指定されている)、立山連峰や富山湾を見渡す展望は抜群で、素晴らしい眺望を堪能できる。
山頂部に空堀で区切られた五つの曲輪が南北に並んでいて、周辺部には多数の平坦地・空堀が設けられている。長さ約1kmにも及ぶ巨大な城郭であり、この城の周囲には支城・砦跡と考えられる遺構が十数ヶ所(魚津城、水尾城、水尾南城、北山城[金山城]、小菅沼城、升方城、坪野城、天神山城ほか)発見されており、越中国最大級の規模を持っている。
升方城と水尾城との中間に位置し、尾根続きである松倉城下には、松倉城の大手門と言われている「石の門」の石垣遺構があります。
南北朝期に始祖椎名孫八が松倉城に入城したとされる。椎名氏は、後に越中守護として赴任した畠山氏に仕え、新川郡守護代に任命された。
永禄年間(1558〜1570)に至り椎名康胤が家督を継ぎ、再び神保長職との抗争が繰り返され、次第に神保氏に圧迫された椎名氏は、上杉謙信に援軍を要請した。このため神保長職は降伏し、椎名康胤は危機を脱した。
その後、上杉氏家臣の河田長親が守将として入り、1583(天正11)年には佐々成政の持城となり、さらに、前田氏の属城となったが、松倉城は、慶長年間(1596〜1615)に廃城となった。
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角川ダムを過ぎたところの分岐点登り口
ここにも城址周辺図や説明板があります |
登城路途中にある八幡平経由の城址登城道
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山頂近くのここで鹿と遭遇!
急停車したら、互いに目と目が点になりましたが、デジカメを構えたら崖下に走り去ってしまいました 2頭なので、斯く斯くシカジカ(!?)です… |
徒歩での登り口にある城址碑
手前側が駐車場で、左の階段を上ると分岐があり、左が二の丸・三の丸へ、右へ行くと本丸に着きます |
ここから徒歩で上がります |
本丸跡
昭和の初めに植えられたヤマザクラの老木40本ほどが残り、桜の名所となっている |
本丸跡西側の巨石のところにある城址碑と説明板
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堀切を隔てた本丸跡南西側の小高いところにある守護神の八幡堂 |
本丸跡から南東の滑川市方面を眺望する
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本丸跡から北の魚津市方面を眺望する
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本丸跡北東側の一段下がったところの腰曲輪 |
二の丸跡
倉庫があったと言われており、本丸とは11m余りの 空堀で仕切られています |
三の丸跡
北から南側にかけて低い土塁が巡っています |
二の丸と三の丸との間の堀切
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本丸跡南西側の一段下がった腰曲輪の虎口部に散乱している石垣の石 |
城跡広場
トイレがあります。ここでもカモシカに遭遇しました |
刀匠 「郷義弘(ごうの よしひろ)」 顕彰碑
越中松倉郷に居住した鎌倉から南北朝期の刀匠で、 京の粟田口吉光、岡崎正宗とともに日本三作と 言われる稀代の名工。27歳で夭逝したとも伝わる |
武隅屋敷跡の枡形石垣
小菅沼城と呼ばれる城館跡で、椎名氏の家老居館と 言われている。周囲も高い石垣で囲まれている |
| 参考サイト | 「松倉城と椎名康胤」 椎名右衛門大夫 殿 越中国新川郡守護代椎名氏と松倉城を扱った本格サイトです |
松倉城想像図(鳥瞰図)
(現地案内板より) |
松倉城縄張図
(現地案内板より) |
松倉 城塁群 案内図
(現地案内板の撮影画像へ加筆) |
| 登城アクセス | |
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車 : 北陸道魚津IC〜右折/県道52号線〜左折/警察署前〜県道135号線 〜左折/大光寺〜県道33号線〜角川ダム〜左折/道なりに〜 駐車場 : 松倉城址の無料専用駐車場を利用 |
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