ザ・登城TOPへ
ザ・登城

北海道地方

蝦夷(渡島支庁)

後から築城された本家・四稜郭より規模も大きく数段堅固な四稜星型陣屋

松前藩戸切地陣屋[まつまえはんへきりちじんや]  (陣 屋)  【所在地】 北海道北斗市野崎66-10

 築城時期:  1855(安政2)年  築城者:  松前崇廣(たかひろ)

まつまえはん へきりち じんや 南東面の表御門

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・空壕・砲台  復元/門 》
 北斗市内の旧上磯町から旧大野町へと向かう道道から途中左に入ると「桜のトンネル」があります。道路の両側に桜並木が続き、その桜が道路の上に被さってきてトンネルとなっています。
この桜の(木)のトンネルの奥の方の左右に、大〜きな駐車場があり陣屋跡が前方に見えてきます。

 この陣屋は、五稜郭と同じく西洋式の築城法で作られ、四稜の星型をしており、まさに「四稜郭」という感じです。(この陣屋の方が、函館市内の四稜郭より約13年前に出来ていますが)
亀の首の形に当たる東角には砲台が設けられ、周囲は高さ2〜3mほどの土塁で囲まれ、その外側に堀が巡らしてあります。
 正直なところ、四稜郭よりも、この陣屋の方が規模も大きく、整備も行き届いていて素晴らしいので、是非一度は登城されることをお薦めします。


 安政元年〜2年(1854〜55)、幕府は約200年にわたる鎖国政策に終止符を打ち、アメリカ・ロシアなど列強諸国との間に和親(通好)条約を結びました。

 しかし、北辺の緊張は依然として続き、ロシアの南下政策を警戒した幕府では、松前藩のほか東北諸藩(津軽・南部・秋田・仙台)に命じて蝦夷地を分割警備させ(安政6年荘内藩と会津藩も加わる)、各藩では24ヵ所の陣屋を築き沿岸の防備にあたりました。

 このうち松前藩では、七重浜から木古内までを分担し、その陣屋として、この戸切地陣屋を構築した。基本は蘭学の築城書による四稜堡で、ちょうど亀が首を出した形をしています。大砲六門を据え、宿舎二十二棟を建て、備頭竹田作郎忠憲以下一隊の兵、およそ百二十人を駐屯させたが、漸次士卒の家族を移して守備のかたわら附近の開拓に従事させ、屯田のかたちをとった。

 完成から13年後の1868(明治元)年、箱館戦争の時、駐屯の松前軍は、旧幕府軍に使われないように、陣屋を自焼して退いた。
 この陣屋は保存極めてよく、幕末における近辺の国際情勢を窺うによく、且つ西欧風の影響を知る資料として、築城史上価値ある史跡である。

 『戸切地陣屋跡案内解説板』より抜粋

道道96号から斜めに左折するこの場所には、戸切地陣屋まで1kmの案内標識が出ています この地方有数の桜名所で、陣屋跡に至る道は、花の時期には桜のトンネルになるそうです
広ーい駐車場から桜の(木の)トンネルを歩いて行くと、
表御門が見えてきます
表御門南西側の堀と土塁
表御門を入って直ぐの所にある陣屋跡碑
後ろに見えるのは馬隠し(蔀/しとみ)土塁です
この陣屋跡は、建物跡を平面表示して、すべてに
丁寧な説明板が設置してあります
内側が犬走り状になっている土塁 北西面の裏御門
こちらの門内にも、馬隠し(蔀)土塁が設けてあります
裏御門北東側の堀と土塁 陣屋跡内部の北角にある大砲入り跡と
奥に見える赤塗りの社
東角の亀の首の形をした象棋頭閉堡形式の砲台跡
手前の平面表示は大砲入跡です
左画像の土塁上から南方の函館湾を望見する

松前藩戸切地陣屋跡 平面図
(現地案内板のものを切取加工)

火薬庫跡の土塁と堀
画像は、「KUBOの家系城郭研究所
のKUBO様よりお借りしました

参考サイト KUBOの家系城郭研究所 KUBO 様
函館お散歩団』(『美浦村お散歩団』) ひづめ 様

登城アクセス
 車  : 函館市〜国道5号線〜左折/万台橋〜国道227号線〜国道228号線〜
  右折/上磯新橋左(東)袂〜道道96号線〜左折/野崎〜

駐車場 : 戸切地陣屋の無料駐車場(花見客用と兼用の為、広大です)を利用

北斗観光協会HPへリンク
「北斗市観光協会」HPへ

ザ・登城TOPページへ 北海道地方の城郭へ
ザ・登城TOPに戻る  北海道地方の城郭へ

北海道  ・ 青森県秋田県岩手県山形県宮城県福島県