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ザ・登城

北海道地方

蝦夷(桧山支庁)

雄大な眺望と、再現されたエゾヶ島の中世の館を訪ねてみよう

勝山館[かつやまたて]  (山 城)  【所在地】 北海道檜山郡上ノ国町勝山

 築城時期:  1470(応仁4)年頃  築城者:  武田(蠣崎)信廣

かつやま たて 館跡中央の通りより表門跡越しに北東方向を望む
天の川河口と日本海が見えます

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・堀・井戸跡  復元/木橋・柵列 》
 国史跡として綺麗に整備されている勝山館跡や、勝山館ガイダンス施設建物内に展示してあるそのジオラマ模型は、勝山館の勢いが一番盛んだった第3期(1520年頃か)の様子が整備復元されています。

 勝山館は夷王山の東山麓に位置し、その中心部は宮ノ沢と寺ノ沢と呼ばれる二つの沢に挟まれた丘にあり、三段の大きな削平地になっています。
二段目と三段目の前後に大きな空壕を掘り切り、柵列や櫓などで厳重に守っています。壕の底から段の上までは8〜10mの深い急斜面になっています。

 壕の中央に架かる木橋を渡り、表門跡を抜けて館の中心部に入ります。館の中央部には幅約3.6mの通路が170mほど真っ直ぐに通っています。道の両側には100〜150平方メートルほどの敷地が作られ、往時には、掘っ立て柱式の建物が建てられていました。正面の橋を渡ったすぐ右側には2,000平方メートルほどの広い敷地があり、館の主たちが使っていたと思われる住居跡や客殿跡と想定される場所があり表面展示されています。
 最奥で南端の一番高い場所に搦手門が設けられ、その門の内側には、館の守り神である館神八幡宮の建物があります。

 勝山館は、自然地形を利用して、夷王山を中心に柵列や櫓で守りを固めた戦いのための山城ではあるが、発掘調査による出土物などから想定すると、柵で囲まれたこの広い空間の中で、中世当時の人々が、街をそっくり移してきてみんなで暮らしていたことが伺えられるという。

 また、勝山館跡の後ろを取り囲むように、夷王山の麓に存在する600以上の墓は、火葬した骨を箱に入れて埋葬したり、遺体を折り曲げ、北枕に土葬したりして、土や石を高く積み上げ墓としています。
 不思議なことに、仏教を信仰する人(和人)の墓とアイヌの人の墓が、同じ墓地に混在していることから、ある時期には、勝山館内部または周辺において、和人とアイヌの人々が一緒に生活していた可能性があるのではないかと思われている。


 鎌倉時代、北海道が夷島(えぞがしま)と呼ばれていて、この頃は、津軽(青森県西部)の安東(藤)氏が鎌倉幕府に代わって夷島を治める代官を命じられていた。
 1400年ころの夷島には、東方に日ノ本、西北の方面一帯には唐子、南方には 渡党という三種類の蝦夷人が住んでいた。日ノ本や唐子の人々は言葉が通じなかったが、渡党の人の中には時々津軽へ交易にやって来た人々がいた。

 宝徳年間(1449〜51)頃、津軽十三湊(青森県五所川原市)を中心に栄えていた安東氏は南部氏との争いに敗れ、津軽海峡を渡り道南に逃れてきた。その後、安東氏を中心とする豪族たちは函館から上ノ国町あたりの河口や湊に十二の館(花沢館・比石館・原口館・禰保田館・大館・覃部館・穏内館・脇本館・中野館・茂別館・箱館・志苔館)を築いた。
 1456(康正2)年、安東政季は前述の道南十二館を、津軽海峡西口近くの松前と、東側の下之国、日本海側の上之国の三つに分け、それぞれの中心となる館主を決めて治めさせた。

 1456年、志苔館近くの鍛冶屋村での鍛冶屋とアイヌとのモメゴトによる刺殺事件をきっかけに、東方(噴火湾〜胆振付近?)のアイヌが蜂起し、大首長コシャマインが率いる戦いとなり、十二の館は次々に攻め滅ぼされ、茂別館と花沢館が残るだけとなった。
 この時、花沢館(館主/蠣崎季繁)の客将・武田信廣が残った勢力を結集し、コシャマイン父子を倒し、和人を勝利に導いた。その後、蠣崎季繁は主の安東氏の娘を季繁の養女にもらいうけ、信廣を娘婿として蠣崎家を継がせた(この信廣が後の松前氏の祖となる)。
 信廣は天の川の河口をこえた北岸に洲崎館を築いてここに移り住んだが、1462(寛正3)年の継父・季繁の死後、夷王山の中腹に大規模な館を築いて本拠とした。これが勝山館である。

 1494(明応4)年に信廣は没し、1514(永正11)年に2代光廣は松前大館(松前郡松前町神明)に移り、勝山館には次子・高廣を城代として配置し、以後、勝山館は大館の脇館として副城的性格の城となった。
 その後の勝山館は、1529(享禄2)年のタケナシの来襲や、1536(天文5)年のタリコナの攻撃にも耐えたが、蠣崎氏の家臣団把握の弱さから、高廣や高廣の子の基廣、基廣の跡を継いで城代となった南条廣継の妻(4代季廣の長女)などの謀反陰謀の地となりました。

 蠣崎氏は季廣の子の慶廣の時、豊臣秀吉より朱印状を授かり、安東氏から独立して蝦夷地を治め、1599(慶長4)年には名を松前に変えた。
 1604(慶長9)年には徳川家康から蝦夷地交易の全権を任された。蠣崎氏が松前藩を立藩して松前に移った頃、勝山館の使命は終わり、上ノ国には檜山番所(奉行)が置かれた。

 1678(延宝6)年、檜山番所が江差に移されて、中世のころ、北海道の日本海側で最も開けて繁栄した上ノ国は、その役割を江差に譲り渡した。

夷王山
山頂には初代信廣を祀った夷王山神社がありますが、
この名前、蝦夷の王の山とは何か意味深な名前ですね。

標高は159mで、山頂に登ると、かつて日本海交易の出船入船で賑わいをみせた大澗湾や大島、小島が浮かぶ日本海が眼下に一望できます
勝山館跡ガイダンス施設
資料館および案内施設ですので、こちらを先に見学すると良く、左側の小道を下っていくと勝山館跡です
夷王山麓には600基余りの墓があり、このガイダンス施設の周辺600平方メートルほどの中から40基の墓が発掘
されましたなお、建物の中から見られる7基のレプリカ
は、真下にある墓をそのままに型取りして再現したものです
館跡南端(一番高い部分)にある搦手口
この近くには、樋と井戸枠を復元した「寺ノ沢の水場」や、
ゴミ捨て場などがあります

搦手口の柵列
搦手口を入ってすぐのところの館神八幡宮跡
八幡宮は1473(文明5)年に館の守護神として祀られたもの
中央の通りと櫓門 想定図
中心部中央を幅約3.6mの道が通り、表門を潜って
40m程中に入ったあたりになります
共同井戸跡 客殿跡
客殿 (CGIによる復元想定図) 館跡北端(一番低い部分)の表門跡を館内部より見る
表門跡
表門手前の空堀に架かる木橋と柵列が復元されています
表門跡南方の虎口の守り跡は発掘調査中でした。
この先の急傾斜を降ると、城代基広の墓所のある
荒神堂跡にでます
 北海道南部から東北北部には「館(たて)」と呼ばれる遺跡が数多く存在していますが、中世の上ノ国には、箱館、松前と並ぶ代表的な港があり、日本海北方交易の中心拠点として栄えたところです。

 この上ノ国町の勝山館跡周辺には同じ国史跡で、長禄元年(1457)の戦いで功を挙げた武田信廣が上之国守護蛎崎季繁の養女である安東(藤)政季の娘を妻とし、同年築いた館である洲崎館跡や、15世紀ころ和人・渡党(わたりとう)と称される本州系の人々が北海道南部への進出の拠点として築いた道南12館といわれている館の一つである花沢館跡があります。

勝山館ジオラマ模型
勝山館の勢いが一番盛んだった第3期(1520年前後か?)の
様子を200分1の大きさで復元したもの

(勝山館ガイダンス施設内展示の画像に加筆)

旧笹浪家住宅

 勝山館跡の真下となる海岸に面した、現在の国道228号線沿いにはニシン漁などで財をなした旧笹浪家住宅があります。
 この笹浪家住宅と上國寺の間には細い道があります。この道は、その昔勝山館の人たちが上り下りした道で、江戸時代になると、松前藩の藩主やその代理の家臣たちが、館神八幡宮や夷王山神社にお参りするときに歩いた道です。


 旧笹浪家住宅(主屋)は、天保9(1838)年に没した能登屋笹浪家の5代目久右衛門が建てたと伝わる石置き屋根の古民家(重要文化財指定)で、明治初期には「全道中の漁家の旧家」と評された

  所在地:上の国町字上の国236番地

悲運の徳川幕府軍艦開陽丸、江差港に座礁沈没!

 開陽丸は、徳川幕府がオランダに依頼して建造した軍艦です。開陽丸はオランダに留学していた榎本武揚らが乗り込み、喜望峰を経由して約5ヶ月をようして横浜港に回航されました。
主動力は石炭、 砲門は片側13門の26門(後に9門が追装備)、乗員数は350〜500人。当時の日本で最強を誇る木造の機帆走軍艦でした。

 「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」と詠われた徳川幕府の巨船開陽丸。

 土方歳三率いる旧幕府軍は、松前城を落とした後、江差方面に退却する松前藩兵を追撃。その時、開陽丸も海上からの攻撃に参加した.
 オランダで建造されて僅か1年7ヶ月後の明治元年(1868年)11月15日未明、江差沖鴎島に迫り、対岸に砲弾を撃ち込み、すでに住民は避難し、無人となっていた町に端舟で上陸した旧幕府軍は、直ちに陣屋と砲台を占拠。開陽丸を鴎島の島影に停泊し、榎本軍は無血で江差を占領した。

 旅籠で疲れを癒していた榎本のもとに、「開陽丸、座礁する」の報告がもたらされ、呆然と立ちすくむ。
その頃、松前から浜伝いに藩兵を追撃してきた土方歳三隊は、激しい抵抗に遭い江差に到着したのは翌16日であった。
 旅籠を出た榎本と土方は本陣に向かう途中、無人となっていた檜山奉行所に立ち寄り、門前にて、まだ3分の1を海面に晒して荒波にもがき狂う開陽丸を眺め悲しんだ。

 よほど悔しかったのでしょう。土方は目の前にあった松の幹を、何度も何度も拳で叩きながら、涙をこぼしたという…
後年、土方が叩いた松の幹に瘤(こぶ)ができ、人々はこれを「歳三嘆きの松」とか、「歳三のこぶし」と噂し合ったそうです。

 北国特有の激しいタバ風に自由を奪われた開陽丸は、10日後には海の底に沈没。
開陽丸などの艦船を失い制海権を逸した旧幕府軍は、やがて、追討令を発令した新政府軍の艦船援護などによって五稜郭に追いつめられ、降伏し箱館戦争に終わりを告げたのであった。


 それから124年後の平成2年4月、沈没した地点からほんの少し離れた江差港の岸壁に、開陽丸が実物大で再現され、係留されています。

(財) 開陽丸青少年センター
所在地:北海道檜山郡江差町字姥神町1-10

江差観光コンベンション協会事務局

参考サイト KUBOの家系城郭研究所 KUBO 様
函館お散歩団』(『美浦村お散歩団』) ひづめ 様

登城アクセス
 車  : 函館市〜国道228号線〜右折/木古内町南本町〜道道5号線〜左折/
  上ノ国駅前〜国道228号線〜左折/道の駅「上ノ国もんじゅ」手前〜

駐車場 : 勝山館跡ガイダンス施設の専用無料駐車場を利用

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