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ザ・登城

北海道地方

蝦夷(桧山支庁)

箱館戦争の攻防で落城した日本最後期の旧式城郭

蝦夷 松前城[まつまえじょう] 別称=福山城  (平山城)  【所在地】 北海道松前郡松前町字松城

 築城時期:  1606(慶長11)年  築城者:  松前崇広

まつやま じょう 天守閣(復元)と本丸御門(現存)

 遺 構  《 現存/本丸御門・旧本丸御殿玄関  復元/天守閣・門・土塀・木橋・砲座  
  遺構/曲輪・土塁・堀・井戸跡 》
 松前町は、函館市から約91キロ、車で約2時間の距離です。車の場合、函館から海岸線を通り上磯、松前へ、帰りは江差から江差街道を通り函館へのルートでほぼ完璧なドライブ観光コースとなり、景色のきれいな追分ソーランラインを通ることになり気持ちの良いドライブとしてもおすすめです。
 歴史マニアック度があり、多数の名所、おいしい海の幸、温泉もあり、海水浴までできます。江戸時代、北前船で栄えた仙台以北の最大の街であった松前。出来ることなら、さくら咲く季節の「さくらの里」に訪ねてみたいものです。

日本の歴史のなかで異彩を放つ松前。  辺境を支配し、交易で栄え、
世界情勢に翻弄された北国の雄。  この町にはミステリアスな時代が眠っている。

 蝦夷島(えぞがしま)の様子が初めて生き生きと描かれたのが、14世紀の「諏訪大明神絵詞」でした。同書には「蝦夷ヵ千嶋」に「日ノ本、唐子、渡党」の三種類の蝦夷が群居し、「万党宇満伊犬」(まとうまいん)という小島があると記されています。
これがアイヌ語のマト・マイを起源とした地名「松前」の最初の登場でした。

 蝦夷地(北海道)には、青森県の南部藩、津軽藩のように北方警備のための陣屋を置く藩もありましたが、実際に居城を置いて統治していたのは、この松前藩だけでした。
 米がとれなかった松前藩は、米を単位とした知行ではなく、蝦夷地での交易の独占が認められていた。このことから松前藩は「無高の藩」と呼ばれ、立藩してから幕末前まで一万石の大名並の格式を与えられていました。


 14〜15世紀の道南地方には、津軽の十三湊(青森県五所川原市)を拠点とした安藤(東)氏によって十二の館(砦)が作られ、安藤氏配下の豪族が割拠するようになっていた。

 安東氏が南部氏との争いに敗れるのと時を同じくして、蝦夷地では大規模なアイヌと和人の戦乱が起こりました。
1456(康正2)年の“コシャマインの戦い”に始まり、百年近く続いたこの戦乱で、道南の館主の覇者となっていったのが武田(蠣崎)信廣を祖とする松前氏であった。

 2世光廣は松前大館(徳山館/松前郡松前町神明)を拠点とし、5世慶廣(初代藩主)のときに、豊臣秀吉や徳川家康から独立した諸侯と認められ、その姓を松前と改めた。
また、1606(慶長11)年には現在の松前(福山)城の前身である福山館を築き、松前藩が成立し、幕府より蝦夷地における支配権を認められた。

 その後、この地方では、生活を脅かされ過酷な収奪に苦しめられたアイヌたちが蜂起した。1669(寛文9)の“シャクシャインの戦い”、さらに、ロシアの南下のなかで起きた1789(寛政元)年の“クナシリ・メナシの戦い”は幕府を揺るがし、これを背景に、1804(文化4)年、松前藩(13世/8代藩主道廣)は奥州梁川(今の福島県北部)の小名に降格され、蝦夷地は幕府直轄地となった。

 1821(文政4)年に蝦夷地支配を復されて松前に復帰した松前藩は、北方警備を担わされた。
松前崇広(17世/12代藩主)は、1849(嘉永2)年に幕府の命令で松前(福山)城の築城に着手し、1854(安政元)年に完成させ、1万石格から3万石に加増された。
 この福山の地にあった福山館を大改修して新造した松前(福山)城は、高崎藩の市川一学の設計による我が国最後の旧式築城として完成した道内唯一もので、砲台を備えるなど和洋折衷の海防型城郭として特異なものである。

 しかし、外国の侵略に対処して築造された松前城は、完成から僅か14年を経た1868(明治元)年、皮肉にも内戦による旧幕府軍によって落城されてしまった。
 翌年4月、松前城は新政府軍により、占拠していた旧幕府軍から奪還され、急造された館城(檜山郡厚沢部町)に逃れ、館藩と称していた14代(19世)兼廣は、同年、版籍奉還し、明治4年(1871年)には廃藩置県となった。

 明治7(1874)年、松前城は政府の廃城令により、天守閣。本丸御門、本丸表御殿の一部のみを残して解体された。
 昭和16年には国宝に指定され、箱館戦争、開拓史の取り壊し、太平洋戦争と、かろうじて残った松前城天守閣は、昭和24(1949)年6月5日未明、惜しいことに、城跡にあった町役場から出火した火事の飛び火により焼失してしまった。

大松前川に架かる馬坂橋
城内へ通じる五つある坂の一つで、“大坂冬の陣”直前、
父の意に反して豊臣方に与しようとした5代藩主慶廣の4男・数馬乃介由廣が家臣に切り殺された場所であることから、数馬坂と呼ばれていたのが訛り、馬坂と呼ばれるようになった
馬坂にかつて存在した徴典館跡

1822(文政5)年に創設された藩校で、
明治維新の際に焼失するまで存続した

七番台場跡
かつて、この三の丸には、海側を向いて
七ヶ所の台場が設けてありました

三の丸に置かれている模型
天神坂門
五つある坂の一つで、外郭から三の丸に至る門です。
門の間に小さく見えるのは天守閣です。2000年に復元

三の丸と二の丸との間の外堀
搦手二ノ門 (二の丸側・内側)
ここは枡形空間になっています。平成12年に復元
二の丸太鼓櫓跡
二の丸南東角部に位置し、3基あった二重櫓のうち、海上はもとより、海岸線から城下町、三の丸まで見渡せる最も重要な櫓でした
城址碑と入城券売所 天守3階から南方向を見る
天守3階から東方向を見る 天守3階から本丸跡を見下ろす
本丸御門
慶長11(1606)年に完成したもので、城内唯一の現存で、
重要文化財指定である
天守閣
昭和まで残ったいた19基の天守の一つ(現存しているのは12基、松前城以外の6基は戦災焼失)であったが、昭和24年に火災焼失し、昭和36年に復元された
並立する本丸御門と天守閣 本丸側(内側)から見た天守閣
旧本丸御殿玄関
慶長11(1606)年に完成した城の多くの建物は、寛永14
(1637)に火災焼失し、2年後に修築されたこの玄関は昭和57年まで松城小学校の正面玄関として利用されていた

本丸側(内側)から天守閣と本丸御門を見る
復元された天守は、三層四階になっています

内堀越しに天守閣(北東面)を見る
城址にある松前神社
松前藩祖の武田信廣を祭神として明治14年に建立
鳥居右手には、7代公廣が3代将軍徳川家光より
拝領した梅の木「臥せ龍梅」があります
月琴堀
山の手側を防御する堀ですが、
樹木が茂り水面が写りません
松前藩屋敷
江戸時代の街並みを14棟の建物で再現したテーマパーク
城址の北方約600mにあり
 北の小京都とよばれる松前の春は、咲きみだれる桜におおわれるそうです。

 松前の桜は250種10,000本。4月下旬から1ヶ月にわたり、次から次へと咲き競い、訪れる人々に春風爛漫、桜花繚乱、華やかな春を満喫させてくれます。
 松前桜の多くは八重の里桜で、全国さくらの名所の多くは、里桜の中でも一重の染井吉野が主体となっていることから、八重桜が豊富な松前は全国的にも希少価値があるといわれているそうです。

 大正時代以降、新品種を作出し、保護育成に努めてきた「花守」たちや、多くの町民の努力によって、名実ともに日本一の桜集植地となっており、日本さくらの会選定の「日本さくらの名所百選の地」に選定され、道内一の桜名所として広く親しまれているそうです。


 近藤勇らとともに浪士組に参加し、新撰組結成以来の中核をなす隊士で二番隊組長を務めた永倉新八は、松前藩士の子で、その居住地跡が松前中学校の近くにあります。
 新八は、8歳の時から江戸の松前藩上屋敷から神道無念流の道場に通い、免許皆伝となる。屈指の剣腕を誇ったその腕前は、一に永倉、二に沖田、三に斎藤一であると評された。
 戊辰戦争では会津藩降伏まで旧幕府軍として戦うが、その後、江戸に戻り松前藩への帰藩が許され保護される。藩医の杉村介庵の婿養子となり北海道松前町に渡り、杉村治備(のち義衛)と名乗る。
 その後、小樽市、東京市で暮らすが、再度小樽に戻り、1915年(大正4年)に死去する。享年76歳。


 松前城の城址北西部には、1669(寛文9)の“シャクシャインの戦い”の際、首の代わりに持ち帰った耳を埋めた場所である「耳塚」もあります。

 福山館の北側非常防衛の役目を果たすべく移設された寺町界隈には、「松前藩主松前家墓所」があり、歴代藩主や、その家族などの55基の墓碑が静かに並んでいます。

二の丸・三の丸南東部案内図
(現地案内板のものを切取加工)

縄張図
(現地案内板のものを切取加工)

土方歳三率いる旧幕府軍により落城

 明治元年10月20日に鷲ノ木に上陸した旧幕府軍約3,000名は、同月25日、五稜郭に無血入城し、当然、松前藩にも降伏を促しました。
 しかし、旧幕府軍上陸前の藩内クーデターで勤皇派が藩政を掌握していた松前藩がこれを無視したため、軍議の上、松前城攻略を発動。
 10月27日に出発した土方歳三率いる約700名による攻撃は、蟠龍、回天などの艦船による海上からの援護射撃も行い、11月1〜5日まで行なわれた。

 士気上がる戦闘要員約400名で対峙した松前城であったが、城近くの高台にある法華寺を占拠した旧幕府軍は、城への突撃を開始し、松前藩の、「大砲の装填は城内で行い、撃つ時だけ城門を開いて外に出して発射する」戦法を読み取り、土方の指示で、大砲を門外に出した途端に射手を狙撃し、その虚を突かれて城門を突破され、松前城は数時間の戦闘で落城し、松前藩兵は城下に火を放ち江差へ退却した。

 松前城天守台石垣に残る砲弾痕は、海側に面した石垣に残るものであり、この時の海上からの艦砲射撃による痕跡と伝えられています。
 一旦、旧幕府軍の手に渡った松前城は、この後の明治2年4月17日、新政府軍に奪還され、その時も、新政府軍の軍艦甲鉄ほか、四艦による海上からの砲撃があったので、その時の弾痕かどうか、確たる結論は出ませんでしたが、砲座七ヶ所大砲37門を有した和洋折衷・最後期に築かれた城郭が、あっけなく落城した生々しさを実感しました。

砲弾痕の残る石垣(天守閣南面) 石垣をアップで 弾痕を個別に接写

参考サイト KUBOの家系城郭研究所 KUBO 様
函館お散歩団』(『美浦村お散歩団』) ひづめ 様

登城アクセス
 車  : 函館市〜国道227号線〜国道228号線〜右折/松前町〜町道〜右折/
  城址入口〜

駐車場 : 松前城の専用無料駐車場を利用

松前町公式HPへリンク
「松前町」公式 HPへ

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