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北海道地方

蝦夷(渡島支庁)

五稜郭の背後を固めるため旧幕府軍が急造した台場

四稜郭[しりょうかく] 別称=神山台場・新台場  (台 場)  【所在地】 北海道函館市陣川町59

 築城時期:  1869(明治2)年  築城者:  旧幕府軍

しりょうかく 土塁上から見た南側の馬隠し(蔀)土塁付きの虎口部

 遺 構  《 遺構/土塁・堀・砲座 》
 四稜郭は五稜郭に対称してつけられた名称で、記録では神山台場、新台場の名で呼ばれ、その名の通り、四角く蝶が羽を広げたような形をしていることから、明治以降に付けられた呼び名だそうです。

 これも五稜郭と同じく西洋式城郭ですが、五稜郭とは比べ物にならないほど、規模がはるかに小さいです(五稜郭の郭内面積247,898平方メートルに対して、四稜郭は2,300平方メートルです)。
感じる広さ的には、南部藩砂原陣屋の倍くらい?、南部藩モロラン陣屋よりも小さい感じです。
 その規模は、東西約100m、南北約70mの広さで、土塁は、幅約5.5m、高さ約3mと低く、その外を巡る堀も幅約2.7m、深さ約1mと防御性に欠け、守るには辛いものがある。

 しかし、蝶が羽を広げたような綺麗な土塁と、桝形虎口になっている虎口はなかなかの見所です。
ここの土塁で造られた小規模な枡形虎口は、枡形本来の敵の侵入を食い止めた上で、三方向から射撃して防御するものではなく、むしろ、外からの見通しを遮るための、馬隠し土塁または、蔀(しとみ)土塁とした方が妥当と思われる。


 1868(明治元)年10月25日、旧幕府の海軍副総裁榎本武揚(たけあき)らは箱館と五稜郭を占領。松前方面をも攻略して蝦夷地を領有した旧幕府軍は12月15日、榎本武揚を総裁とした蝦夷共和国を発足させた。

 これに対し、明治新政府軍は翌1869(明治2)年4月、大軍を派遣して道南各地の旧幕府軍を攻撃したため旧幕府軍は箱館方面に後退。五稜郭に立て籠もる旧幕府軍はその背後を固めるため、五稜郭の北方約3kmの傾斜面の台地上に四稜郭を急造した。

 地元の言い伝えによると、旧幕府軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約100名を動員して4月下旬に昼夜兼行で数日の内に四稜郭を完成させたといわれている。

 明治2年5月11日の早朝から新政府軍は箱館総攻撃を開始。新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵たちは四稜郭を攻撃。
松岡四郎治郎率いる旧幕府軍は防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の中間にあたる権現台場を占拠したため、退路を絶たれることを恐れた四稜郭に籠る旧幕府軍は五稜郭へと敗走。わずか数時間の戦闘で四稜郭は陥落した。

 その五稜郭も5月18日、新政府軍の圧倒的な兵力の前になすすべもなく開城。榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終結した。

南側虎口の脇にある案内解説板 史跡「四稜郭」銘碑
土塁上から南側虎口の馬隠し(蔀)土塁を見る 内部の四つの角部に設けた砲座とそのスロープ
規模が小さいので、土塁上から場内がほぼ見渡せます  四稜郭の設計者は大鳥圭介といわれている。
「ここは一つ降伏と洒落こもうか」戦で負けても笑いながら帰って来たという不敵な策士、大鳥圭介。彼を嫌う土方ファンは数多い。

 大鳥は播州赤穂の医者の家に生まれ、大坂の適塾で緒方洪庵に師事してオランダ医学を学ぶが、何故か軍学者の道を選ぶ。
蘭学の講師を務め教壇に立つが、生徒に後の敵軍総大将、黒田清隆がいたというのは笑えない事実である。

 蝦夷共和国では陸軍奉行の職につき、戦場でも指揮をとるが連戦連敗。明治維新後は新政府に出仕し、高官に取り立てられた。

四稜郭公園 配置図
四稜堡の形をした四稜郭の周囲の公園部分は四稜郭とは関係ありません

参考サイト KUBOの家系城郭研究所 KUBO 様
函館お散歩団』(『美浦村お散歩団』) ひづめ 様

登城アクセス
 車  : JR函館駅前〜国道5号線〜右折/亀田町〜道道〜左折/亀田橋手前
  十字路〜右折/赤川郵便局の先〜市道〜左折/変則五差路〜左折/四稜郭
  公園入口

駐車場 : 四稜郭公園の無料駐車場を利用

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