| 中国地方 |
| 出雲(島根県東部) |
尼子氏の最強武闘派集団、新宮党の居館
| 築城時期: 室町時代 | 築城者: 尼子国久 |
新宮党館跡に建つ大夫神社の鳥居と館跡説明板
|
| 遺 構 《 遺構/なし 》 | |
|
新宮党とは、出雲の戦国大名・尼子氏の軍勢中、武闘派集団・精鋭として知られた一党のことである。尼子経久の次男・尼子国久が率い、数々の合戦で多くの戦功を挙げた。
国久は居館を月山富田城の北麓・新宮谷に構えていたため、新宮党を称した。この新宮党は出雲東部、そして弟である塩冶(尼子)興久の遺領を引き継いでいた為、出雲西部塩冶にも勢力を及ぼしており、言うなれば出雲一国に影響力を持っていた。 新宮党が尼子軍の中心勢力であったことから、それを率いる国久と息子の誠久・敬久は傲慢で横柄に振る舞い、尼子家当主の尼子晴久や他の重臣たちとの間に確執が生じていた。1554(天文23)年11月1日、晴久は謀叛の嫌疑によって、また家中の統一を図るため、国久、誠久・敬久親子ら新宮党幹部を粛清した。その後、晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせたが、実態面において新宮党は滅亡した。 一説によると、国久と息子の誠久・敬久らの新宮党の誅殺は、その強さを恐れた毛利元就の謀略(「反間の計」に乗ぜられた)が働いた(陰徳太平記より)とも言われるが、現在は晴久の独断であるという説が有力となっている。
切岸の上に建つ太夫神社の鳥居が目印となる。 尼子国久父子の墓碑と神社の小さな祠があり、館跡の大半は、発掘調査の後に埋め戻され、小学校のグランドの様にきれいに整地されて平坦地となっているが、遺構らしきものは見当たらなかった。
|
|
入口部から館跡を望む 道路からも、館跡の切岸が望まれる |
館跡
発掘調査によって主殿をはじめ、多くの建物が 建ち並んでいたことが解明されたが、遺構は埋め戻され、 現況は約千四百坪の平坦な土地が広がるに過ぎない |
館跡の一画に建つ大夫神社
館主の尼子国久をはじめ、誠久、敬久などが 大夫職にあったため、この祠を大夫神社という |
尼子国久と誠久・敬久父子の墓 |
|
上月城に拠った尼子家再興の切り札
尼子勝久 ■ 1553(天文22)年生誕〜1578(天正6)年7月3日死没 ■ 尼子経久の次男尼子国久の孫で、尼子誠久の四男。
尼子氏は、南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、高久が近江国甲良荘尼子郷の尼子館に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。
尼子晴久(経久の嫡孫)が内紛により一門の新宮党を滅ぼした際、党首・国久の二歳になる孫(誠久の4男)が乳母に抱かれて落ち延びた。
勝久は彼らに推されて尼子家再興軍の旗を揚げ、毛利一族に挑戦する。勝久主従は島根半島に入って尼子浪人衆を糾合し、月山冨田城奪還を目論むが、城主・毛利元秋や城代・天野隆重の奮戦により攻略できず、京に逃れた勝久らは織田信長を頼る。
秀吉は、信長の命による別所長治が籠る三木城攻略のため上月城を救援できず、孤立無援となった勝久は天正六年(1578)七月に嫡男・豊若丸や弟の尼子通久、重臣の神西元通らと共に自害した。享年26歳。 また、山中鹿介幸盛は捕虜となり移送される途中に斬殺された。これにより大名としての尼子氏再興運動は潰えることとなった。 |
| 登城アクセス | |
|
車 : 山陰道松江玉造IC〜合流/国道9号線〜右折/古志原トンネルを出て すぐ〜国道432号線〜左折/広瀬町広瀬〜県道45号線〜新宮橋〜毛利元秋 の墓〜左折/Y字路〜 駐車場 : なし |
|