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ザ・登城

中国地方

出雲(島根県東部)

山陰の覇者・尼子氏の本拠、戦国を代表する巨大山城

月山冨田城[がっさんとだじょう] 別称=月山城・富田月山城  (山 城) 【所在地】 島根県安来市広瀬町富田

築城時期:  1185(文治元)年頃か? 築城者:  佐々木義清か?

がっさんとだ じょう 山中御殿平の 菅谷口の門跡を見る
後方は三の丸・二の丸・本丸がある月山

 遺 構  《 遺構/曲輪・石垣・堀切・井戸  復元/石垣・主屋・侍所 》
 月山冨田城は、歴代の出雲国守護職の居城として、また、戦国時代には尼子氏の本拠地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の代で「11州(11ヶ国)の太主」と呼ばれるまでに版図を広げた。

 天然の地形を利用した最も難攻不落の要塞城といわれていた月山富田城を巡っては度々攻防戦が行なわれた。大内義隆が攻め、毛利元就が攻めたが力攻めでは落とすことが出来ず、元就も結局は四年の歳月をかけた兵糧攻めの末に尼子氏を降伏させたのだった。

 月山富田城は、中海に注ぐ飯梨川の河岸、標高約197mの月山に築かれた要害である。城内に侵入するには御子守口、塩谷口、菅谷口から延びる細長い隘路を突破する必要があり、攻城は困難を極めた。

 大手道である菅谷口、御子守口、塩谷口からの登城道は、全て山腹の山中御殿へと通じており、ここが最終合流地点である。
山中御殿(さんちゅうごてん)のあった御殿平(ごてんなり)の広さは、約3,000平方メートルもある広大なもので、上下二段に分かれていた。

 山中御殿平から七曲がりと呼ばれる急な登城道を喘ぎながら登ると西の袖ヶ平にでる。山頂部は、本丸、二の丸、三の丸、西の袖ヶ平が連郭式に配置されている。
 本丸跡からの眺望は素晴らしく、西には、大内義隆が陣を構えた京羅木山。広瀬や安来の町並みが広がり、さらに中海が一望できる。


 月山富田城の歴史は古く、鎌倉時代初めの1185(文治元)年、近江源氏の血を引く佐々木義清が出雲・隠岐の守護職となり、月山に居館を構えたのが始まりと伝えられている。

 その後、塩谷氏、山名氏、京極氏と守護職が替わり、1391(明徳2)年、京極高詮が守護となり、近江国甲良荘尼子郷(尼子館)に居住し尼子氏を称した尼子高久の子で、甥の持久を守護代として月山富田城に入れた。
尼子氏は、持久−清定−経久と三代の間に勢力を拡大し、守護京極氏と対立し、経久は守護代を剥奪され富田城を追放された。
 1486(文明18)年、尼子氏中興の祖とされる経久は富田城代塩治掃部介を攻め、富田城を奪還して、富田城を大幅に改築し、この城を拠点にして、近隣諸国を攻め滅ぼし、山陰・山陽十一ヶ国の太守にのしあがった。

 その後、経久から孫の晴久に家督が譲られてからの尼子氏と、大内氏を滅ぼして勢力を伸ばした毛利元就との二強が中国地方で攻防を繰り返すこととなる。

 1554(天文23)年、尼子晴久は毛利元就の謀略にかかり、尼子氏最強軍団と謳われる新宮党の尼子国久・誠久らを誅殺してしまい、尼子氏の勢力は削がれてしまった。
 晴久急死の後、家督を継いだ義久は、1563(永禄6)年、毛利元就に攻められ、永禄9年、ついに降伏開城した。

 毛利氏時代には、天野隆重・毛利元秋・毛利元康・吉川元春・吉川広家が城代・城主となったが、1600(慶長5)年の“関が原の戦い”で西軍総大将として担ぎ出された毛利氏は、防・長二国へと大減封となり、吉川広家は周防岩国へ移った。替わって、関が原で戦功のあった堀尾吉晴・忠氏父子が遠江浜松より入城した。

 堀尾氏は、富田城が城下町を発展させるには狭すぎるため、1611(慶長16)年に松江城を築いて移り、月山富田城は廃城となった。
 尚、江戸時代の幕藩期には、飯梨川対岸の地に出雲松江藩主松平(越前)直政の二男・松平近栄が3万石に分知された広瀬陣屋(安来市広瀬町広瀬)があり、明治まで10代続いた。


飯梨川対岸より城址を遠望する
歴史資料館(右)と道の駅「広瀬・富田城」
道の駅の建物裏側からの登り口もあります
車の場合はここに駐車すると良いでしょう
道の駅南側の御子守口の登り口
ここには、トイレや復元模型、城址碑があります
千畳平
御子守口の正面に位置する城兵集合の場で、
北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る
太鼓壇
千畳平に続く南側の郭で、時と戦を知らせる大太鼓が
置かれていたと伝わる。現在、山中鹿介幸盛の銅像と
尼子氏の碑が建っている
奥書院
大手道と搦手道との間、太鼓壇と山中御殿平の間に
位置し、奥書院があったと伝わる。
現在は戦没者慰霊碑が建っている
花ノ壇
大手道と搦手道との間、山中御殿平の正面、一段下に位置する。かつて、多くの花が植えられていたことからこの
名がついたといわれる。主屋と侍所が復元されている

発掘調査をもとに復元された
花ノ壇の主屋と侍所
通路跡
花ノ壇と山中御殿平との間の虎口で、
版築された通路を復元保存しています

花ノ壇南端の様子
花ノ壇では石垣も大きな見どころです 花ノ壇の堀切
山中御殿平の大手門跡
3ヶ所の虎口である大手道(菅谷口)、搦手道(御子守口)、裏手道(塩谷口)が合流する山中御殿平の入口に位置する

左の大手門跡の石段
大手門跡付近から山中御殿平と
主郭部のある月山を見る
北麓から登ると至る菅谷口(大手道)の
虎口と櫓跡を城内側から見る
菅谷口の虎口近くにある雑用井戸 南麓から登ると至る塩谷口(裏手道)の
虎口部を上から見る

塩谷口の石垣上から見た山中御殿平の様子
山中御殿平は上下二段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に附属の館があったと伝わる
南端の正面に石段があり、
ここから主郭部に登ることになる
いよいよ主郭部である詰の曲輪にご案内いたします
七曲りを登り始めるとすぐにある親子観音
堀尾忠氏急逝後の慶長12(1607)年に富田城内で起きた
跡目を巡る争い(お家騒動)の堀尾河内守(吉晴の娘・勝山
の夫)とその一子・掃部を供養して祀った宝篋印塔です
七曲りの途中
山中御殿平から詰の曲輪のある山頂部へ続く道
かなり急峻で、現在は石畳となっている
七曲りの途中にある山吹井戸
山中御殿平からの登り道は七曲りの他に、
「月山軍用道」があり、
これらの二本の道は途中で合流します
わざと屈折させて攻めにくくしてある
三の丸への虎口部
七曲りを登りつめると西方を監視する櫓があったと伝わる
袖ヶ平に出る。ここの脇道を通っても本丸に行けるが、
順序よく三の丸に向かいましょう!

袖ヶ平からみた三の丸西側の石垣
三の丸
鳥居が建っているほか、
石垣の石がゴロゴロと放置されています
二の丸への虎口
屈折を繰り返した横矢掛かりの虎口となっている
長辺で約20m、短辺が約15mの広さ
二の丸
ここは水や食糧を蓄えていた曲輪と考えられていて、
双児井戸跡が残る。現在は休憩用の建物がある
二の丸北端から見た北方向 二の丸北端から北西の花ノ壇を見下ろす
二の丸と本丸との間を仕切る堀切
二の丸側の石垣は復元され、本丸側はそのままで、残存石垣が少しだけ残されている。堀の深さは約7〜8m
本丸(手前側)
月山の最高所に位置し、標高は197mである
本丸(奥側)
大国主命を祀る勝日高守神社は、尼子氏時代、
城内の守り神であった
この神社は築城以前から所在したと伝えられる

本丸の土塁
奥に見えるのは山中鹿介幸盛の記念碑です

山陰の風雲児、 山中鹿介 勇名を馳せる

■ 生誕 1545(天文14)年〜死没 1578(天正6)年7月17日 ※諸説あり
■ 実名は幸盛(ゆきもり)、通称は鹿介(しかのすけ) 出雲国富田庄で出生
■ 父は山中満幸、母は立原綱重の娘。鹿介の娘の夫が因幡鹿野城主の亀井茲矩である
■ 山中氏の祖は尼子幸久とされ、幸久は出雲尼子氏の初代・尼子持久の子(清定は兄)で、
  鹿介は幸久の四代後裔といわれる。

 山中鹿介は月山富田城開城後、主家再興をはかり、尼子一族新宮党の遺児・勝久を擁して出雲に入るが、毛利軍に敗れる。
上洛して織田信長を頼り、羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めの際、主従ともども播磨上月城に入城するが、「上月城より播磨三木城攻めに専念せよ」との信長の命により、秀吉軍は撤退し、毛利軍の猛攻のまえに、勝久は自刃、鹿介は捕われ、毛利輝元のもとに護送される途中の“阿井の渡し”で殺害された。

 三日月に七難八苦を祈り、敗れても、敗れてもなお主家再興の望みを捨てず、仇敵毛利氏に立ち向かった山中鹿介幸盛の名は、英雄伝説「尼子十勇士」の筆頭として、後世絶大なる人気を博した。

 山陰の麒麟児で、戦国時代3指に入る美男子といわれる山中鹿介幸盛の名が歴史に勇躍登場した月山富田城攻防戦での品川大膳との一騎打ちを紹介しよう。

「鹿」対、改名までした「狼」の一騎打ち
 
 石見の大豪族・益田藤包家臣の品川大膳は、毛利家中で荒武者として知られた存在だった。品川は毛利軍の前に立ちはだかる勇将・山中鹿介をなんとしてでも討ち取り、武名をあげたいと願っていた。

 そこで大膳は、古代から日本に伝わり、言葉に霊力が宿るという「言霊」信仰から、「タラ木狼介」と改名した。
というのは、シカがタラを食べると精力過剰になってその角が落ち、さらに狼はよく鹿を襲うので、縁起がよいというわけだ。
 大膳の改名理由はくだらない駄洒落のようにも受け取れるが、当時の真摯な気持ちに基づいてのことに違いない。

 ともあれ、品川大膳改めタラ木狼介は、富田川中州で名乗りをあげ、見廻り中の山中鹿介に一騎打ちを挑んだ。
狼介は弓で鹿介を射ようとするが、これを卑怯とみた鹿介の味方が狼介の弓弦を矢で射切り、両者は斬り合いとなる。
技で勝てんと思った狼介は、「刀の組み討ちは面倒だッ 力比べいたそう」と力での勝負となり、やがて激しい取っ組み合いの末に鹿介が勝利し、ついに狼介の首級をあげると、尼子方の士気は大いに高まったという。
 山中鹿介幸盛二十一歳、尼子家中にその人ありと称された智勇兼(美)の三拍子揃った若武者であった。

 江戸時代の大坂を代表する豪商のひとつである鴻池家。醸造業で財をなし、海運業、金融業に事業を拡大、やがて幕府や諸大名の御用を務めるようになった。
「旧三和銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)」「日本生命」のルーツとして知られる。

 この鴻池家の始祖とされているのは、鴻池新右衛門。摂津国川辺郡鴻池村で、慶長年間(1596〜1615)に醸造業を始めたという。
 鴻池家の系図によれば、新右衛門は山中鹿介の子、あるいは孫とされている。 言い伝えでは、武士を捨て、鴻池村に住みついたのは天正六年(1578)。鹿介が「武」に生き、無念のうちに死んだのを目にして、「商」で家を支えようとしたのだろう。

 鴻池家も大財閥に発展する地力をもっていたが、安定経営に務める家風から、事業の拡大に慎重で、三井・三菱・住友など三大財閥ほどの巨大コンツェルンになることはなかった。

 鴻池家は、毛利氏との因縁から、長州藩に対する支援に消極的だったといわれる。明治新政府の実権を握った長州閥とは、政治的、経済的にあえて「距離」を置いたのかもしれない。

厳倉寺
厳倉寺の奥、西側最下段に位置し、飯梨川に面する御茶庫台(おちゃこだい)と呼ばれる区域に所在しています
堀尾吉晴の墓所
慶長16(1611)年6月17日松江にて没す 69歳
五輪(地・水・火・風・空)の最低基部が目の高さに
造られていることが、太守の墓の証明になっている
山中鹿介幸盛の供養塔
我に七難八苦を与え給え
山陰の勇将で、戦国時代3指に入る美男子といわれる
幸盛の遺徳をしのび、慶長7(1602)年、堀尾吉晴の
御内儀(妻・大方殿)によって建立されたもの

復元模型
(御子守口の登り口に設置)

案内図
(現地案内板より)

尼子経久 騎馬像
(対岸の飯梨川河原の三日月公園内にあり)

尼子氏館
  尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の支流。南北朝時代の
 バサラ大名である佐々木高氏(道誉)の孫、高久が近江国甲良荘尼子郷に
 居住し、名字を尼子と称したのに始まる。
  室町時代に尼子高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲の
 守護代として同地に下向して月山富田城に拠った。

所在地 : 滋賀県犬上郡甲良町尼子

登城アクセス
 車  : 山陰道松江玉造IC〜合流/国道9号線〜右折/古志原トンネルを出て
  すぐ〜国道432号線〜左折/広瀬町広瀬〜県道45号線〜右折/ ひろせ
  ショッピングセンター前〜富田橋〜左折〜道の駅「広瀬富田城」〜

駐車場 : 道の駅「広瀬富田城」の駐車場を利用


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