中国地方
出雲(島根県東部)
宍道湖へと羽を広げた千鳥の城

松江城[まつえじょう]
別称=千鳥城・亀田山城・末次城 (平山城 ) 【所在地】 松江市殿町

築城時期 :  1611(慶長16)年 築城者 :  堀尾吉晴・忠晴/松平綱近(三の丸築城)


まつえじょう

宍道湖・中海、水の都に残る江戸情緒
人柱伝説語り継がれる松江大橋から大山を遠望
城下町の面影が色濃い塩見縄手で嗜む茶
小舟にゆられて桜吹雪の堀川めぐり
いつも見下ろす古式豊かな望楼天守



 遺 構  《 現存/天守閣  復興/南多聞櫓  復元/南櫓・中櫓・太鼓櫓・塀・廊下橋・北惣門橋
  模擬/本丸一の門・南虎口冠木門  遺構/曲輪・石垣・土塁・石段・濠・井戸 》
宍道湖とお茶の文化に育まれた味 「松江」

名実ともに松江のシンボルである松江城が
いつも町を見守る父のような存在だとすれば

日本で七番目に大きな湖で
夕景の美しさで人々を魅了する宍道湖は、母のように優しい。

質実剛健でありながら気品漂う松江城と、「宍道湖七珍」に代表される豊富な魚介で、
松江の味覚に彩りを添える宍道湖を誇りに、訪れる客を温かく迎え
さりげなく心憎い演出でもてなす人と店が、松江には数多く存在する。


◇◇ 松江城を訪ねる ◇◇

 松江城は、優美で古式豊かな五層天守から千鳥城と呼ばれる、日本を代表する名城中の名城である。
関ヶ原の合戦後、出雲・隠岐二十四万石の太守となった名築城家の堀尾吉晴が精魂込めて築いた。  

 城地に選ばれたのは、標高二十八・四メートルの亀田山(別名、極楽寺山)であった。亀田山の南は大橋川と天神川(当時は入海)が流れて天然の堀をなし、東側は沼地、西側は深田で、戦略的に優れた要害堅固な地である。
かつて、この地方の土豪小領主の末次氏が、ここに末次城を構えて割拠していた。

 築城にあたり、山頂を平坦地にして本丸を造成。中腹に二の丸上段、中曲輪、その下方に帯曲輪、腰曲輪を形成した。さらに麓には二の丸下段、大手口、後曲輪などを設けた。
本丸を中心に梯子状に曲輪群を構成する形の梯郭式と、階段状に曲輪群を構成する形の階郭式の双方を併用した縄張の平山城である。

 しかし北側に北の丸(のちに出丸)の丘があり、外曲輪、城山稲荷の曲輪を形成することから、本丸と北の丸の二つの中心がある並郭式縄張で、全体を内掘が囲んでいると見ることもできる。また、元禄期の松平氏時代に三の丸が南方に築かれるので、並郭式の本城に出城が附属する構えともいえる。

 全国に現存する12天守の一つで、天守閣の平面規模では2番目、高さでは3番目、古さでは6番目の天守閣が聳える名城である。


★ 松江城主要データ ★

 ■ 文化財指定 : 内掘内は国指定史跡。天守および付櫓は国指定重要文化財
 ■ 本丸開門時間
  4月1日から9月30日 午前7時〜午後7時30分
  10月1日から3月31日 午前8時30分〜午後5時 
 ■ 天守への登閣時間
  4月1日から9月30日 午前8時30分〜午後6時30分(受付は午後6時まで)  
  10月1日から3月31日 午前8時30分〜午後5時(受付は午後4時30分まで)  
 ■ 歴代城主 : 堀尾氏2代・京極氏・松平氏10代


東南より二の丸諸櫓と天守を望む。左より南櫓、天守(上)、中櫓、太鼓櫓(右端隠れている)

松江城物語

名将が築き、 茶人大名が愛でた 出雲の要衝


 戦国の出雲の中心であった富田城

 重厚な戦国の遺風を今日に伝える松江城は、堀尾吉晴が築いた。"関ヶ原合戦"後、吉晴は出雲(島根県)に封じられたが、彼がまず居城にしたのは能義郡の月山富田城(現/安来市)であった。富田城は、鎌倉時代に出雲の守護となった佐々木義清以来、山名、京極、尼子、毛利の各氏が居城にして出雲を統治し、戦いを繰り返した城である。ことに戦国時代の尼子と毛利の攻防は、熾烈を極めた。

 尼子氏は三代経久のとき大いに武威を誇り、山陰・山陽の諸国を従えて、「陰陽十一州の太守」と称された。しかし、安芸(広島県)の毛利元就が台頭してくると、次第に圧迫される。そして、六代義久のとき、富田城は毛利勢から三年に及ぶ攻勢をかけられた末に落城、尼子氏は事実上滅亡した。
 忠臣の山中鹿助幸盛は、出家していた勝久を押し立て尼子氏の再興を目指すが富田城の奪還に失敗。以後、各地(但馬、因幡、播磨)を転戦し、織田方の羽柴秀吉の協力を得るが、播磨上月城(兵庫県佐用町)で毛利軍に敗れ、勝久は切腹。鹿助は護送される途中に斬殺され、七難八苦の生涯を閉じた。

 その後、富田城は元就の孫・吉川広家が城主となるが、"関ヶ原合戦"で毛利本家の輝元が西軍についたため、領土を大幅に減封され、広家も周防岩国に転封された。

 吉晴・忠氏の武功で得た二十四万石

 慶長五年(1600)九月の"関ヶ原合戦"から二ヵ月後の十一月、堀尾吉晴は富田城に入った。吉晴は尾張国(愛知県)丹羽郡御供所の出身で、若くして織田信長に従え、羽柴秀吉に属した。その容貌はきわめて柔和で「仏の茂助(元服名)」といわれたが、戦場では常に先陣をきって敵陣に突入して武功をあげ、しばしば信長から賞された。また秀吉に従った合戦では、播磨の三木城(兵庫県三木市)攻め、備中高松城攻めでも武功をあげ、さらに明智光秀と戦った"山崎の戦い"では天王山を占拠して、戦いの帰趨を決定づけた。
 これらの戦いぶりに秀吉は「仏の茂助ではなく、鬼の茂助というべし」と称賛したという。さらに"賤ヶ岳の合戦"、"小牧・長久手の合戦"、"小田原北条氏攻め"でも力をいかんなく発揮し、秀吉から「日ノ本無双の剛の者」と称えられ、遠江浜松城十二万国に封じられ、中村一忠・生駒親正とともに豊臣政権の三中老として活躍したのである。
 豊臣秀吉が没し、前田利家と徳川家康の間に亀裂が入ると、吉晴は両者の融和にに努めたが、やがて家康の度量に心服していく。利家没後、家康と石田三成が対立すると、吉晴は家康に与した。家康は吉晴に、秀吉の遺志として越前府中(福井県越前市)五万石を隠居分として与えた。吉晴は浜松城を子息の忠氏に継がせ、自らは府中に在城することになる。

 "関ヶ原合戦"の前、家康が会津の上杉景勝を討つべく東上すると、浜松にいた吉晴は従軍を願った。だが上方の情勢を懸念する家康は、吉晴に越前府中に戻り大坂方の動向に対処するよう命じ、忠氏を同行して江戸に進軍した。
 吉晴は越前府中に帰る途中、三河(愛知県)の池鯉鮒で刈谷城主の水野忠重(家康生母の於大の弟/勝成の父)と親交を深めた。ところが、その場に同席した加賀井秀望が突然、忠重を斬殺した。驚いた吉晴は加賀井を斬り倒したが、水野の家臣は吉晴が二人を殺害したと勘違いし、斬り込んできた。吉晴は全身に十七ヵ所の傷を負いながらも、窮地を脱する。後日、加賀井は石田三成と親交があり、水野に西軍参加を要請する密使であったが、意見の相違から水野を殺したことが判明、吉晴の冤罪は晴れたのである。
 "関ヶ原合戦"後、家康は吉晴・忠氏の功績を称え、出雲・隠岐二十四万石に封じた。しかし、傷が癒えない吉晴は隠居し、忠氏の後見となった。

 宍道湖のほとりに城普請の名人が築城

 吉晴・忠氏父子が入城した富田城は、長く出雲統治の本拠だったが、中世の山城で防御には利点があるものの、政治・軍事・経済・交通の要地ではない。慶長八年(1603)、幕府が城地移転を許可すると、宍道湖と大橋川を隔てた亀田山(末次城址)が新城の候補にあがった。
 ところがその後、忠氏が二十六歳の若さで急死する。吉晴の孫の忠晴が七歳で跡目を継ぐが、その間築城は中断。工事が再開されたのは、忠氏の喪が明けた慶長十二年(1607)の春であった。城の縄張は「太閤記」の著者で軍学者の小瀬甫庵が行ない、工事の監督は加藤清正と並ぶ城普請の名人といわれた、吉晴自身があたった。

 それから四年後の慶長十六年(1611)、松江城は完成したが、その雄姿を見ることなく吉晴はすでに同年六月に没していた。吉晴は生前、武功話を求められても、ただ笑うだけで決して自分の武勇を誇ることはなかったという。今日でも、吉晴の築城を褒め称える松江市民は多い。吉晴が築いた城下町は武家屋敷を今に伝えて、旅人を歴史のロマンに誘っている。

 忠晴は富田城から松江城に移るが、在城二十二年で死去、嗣子なきために堀尾家は三代で断絶した。
 堀尾氏に代わって城主となったのが若狭小浜城主の京極忠高であった。忠高は斐伊川その他の治水に努め、「若狭土手」の地名を残している。しかしわずか四年で病死し、やはり嗣子がいなかったため、京極家は断絶となる。

 藩の財政を再建した茶人大名・不味(ふまい)

 京極氏に代わって松江藩主となったのが、越前福井藩主・松平(結城)秀康(徳川家康の二男)の三男・直政である。直政は信濃松本から出雲十八万石余(隠岐は預地)に転じ、以後松平氏十代が明治維新まで治政する。

 寛永十五年((1638)、松平直政は松江城に入ると、天守の荒廃と傾きを知って早速修理を行った。藩主は直政から綱隆・綱近と続くが、幕府隠密の報告書といわれる「土芥冠讎記」には、直政は「吝嗇にして(家臣)に禄を賜る事なく」とあり、綱近も祖父の直政に劣らぬ吝嗇家であると記されている。これは二人の性格というよりも、松江藩の財政が疲弊していたことを示している。

 藩の財政難は、度重なる天災や幕府への公務の出費で、綱近・吉透・ 宣維を経て、六代宗衍のときにピークに達した。宗衍が一両を求めたところ江戸藩邸になく、近習が江戸中を駆け回るが、「出羽様(松江藩主)御破滅」と松江藩の破産状態の噂が広まっていたため、借金に応じる者がいなかったといわれる。  宗衍は財政改革に取り組んだが、さしたる効果は上がらず、三十九歳で隠居させられ、子の治郷(不味)が明和四年(1767)、十七歳で藩主となった。治郷は、経世家として知られる国家老の朝日丹波に再建を委ねた。

 財政再建の第一歩は、まず足許の藩財政を粛清し、無駄な出費を抑えることであった。また借金や負債の棒引きを図る。だが、これは消極的な手法で、財政を黒字に転換するには生産性を向上させなければならない。そこで松江藩は、治水土木・灌漑などのインフラ整備による新田開発等を行ない、木綿・染物・造酒・蠟燭などの地場産業を振興させた。折しも幕府老中・田沼意次による商品経済化の時代であり、儲かる産業には藩をあげて支援して生産、それを御手船(藩の海運船)で国外に積極的に搬送して、利益を作り上げる仕組みを作り上げていった。
 その結果、約五十万両といわれた借金は次第に返済することができ、治郷の治政の後半には、九万両を蓄財するまでになった。この余裕から治郷は、茶道具の蒐集に情熱を注ぐことになるが、治郷の茶道への造詣は、若いときの精神修養として始まっていたのである。

 「知足−足ることを知る」を心の基本にすえる禅道と、茶道の"茶禅一如"を修行した治郷 は不味と号し、宗納を茶名とした。その茶風は千利休の侘び茶を根本におき、大名茶と町人茶の各流派の真髄を統合したもので、不味流といわれる。治郷は茶道の清貧な心を説いた「贅言」や、名器を分類した「古今名物類聚」などを著して、茶道文化の成熟に寄与した。今も松江に根付く茶道などの文化は、治郷時代の大いなる遺産といってよいだろう。

 幕末の松江藩を動揺させた二つの事件

 治郷の行財政改革の手腕と文化人としての見識は、諸大名の手本になったという。治郷の後の藩主は斉恒・斉貴と続き、美作津山藩松平家より入った定安のときに幕末を迎え、鎮撫使事件と隠岐騒動の混乱に巻き込まれた。
 松江藩は親藩として、二度の“長州征伐”に出陣したが、最後の将軍徳川慶喜が大政を奉還すると、朝廷への恭順の意思を明らかにした。だが、山陰道鎮撫使の西園寺公望を擁する因幡鳥取藩は、松江藩の軍艦八雲丸の動向が不審であるとして詰問状を発した。八雲丸が宮津に入港する際、葵の旗を掲げていたためである。京都守護にあたっていた定安は鎮撫使に謝書を送り、執政の大橋筑後は切腹を覚悟したものの、藩あげて鎮撫使に恭順することで解決をみている。

 一方、隠岐騒動は、尊皇攘夷の思想に固まる神官と庄屋層が起こしたものである。彼らは自らを正義党と呼び、隠岐は天皇領になったとして松江藩兵を追放、自治機関を設置した。松江藩兵の攻勢で自治体制は一時崩れたが、再び復活し、明治二年(1869)に隠岐県が設置されるまで住民自治が続いた。維新の激動期とはいえ、藩役人を追放して自治機関を設立したことは特筆すべきことである。

 同年に藩主の定安は松江藩知事となり、四年(1871)の廃藩置県によって松江県を経て島根県に編入される。松江城は島根県庁に譲渡されたが荒廃し、四年後には入札で払い下げられた。天守はわずか百八十円であったという。このとき、二百六十年の歴史を誇る松江城の潰滅を惜しんだ簸川郡の勝部本右衛門という豪農の働きかけで、入札は中止され、広く有志から集められた資金によって城は保存された。

 宍道湖に臨む松江城の雄姿と侍屋敷を中心とする城下町は、長い歴史の深い趣と余韻を今に伝え、あなたのお越しを待っている。


堀川めぐり遊覧船

松江城 絵図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 松江道松江玉造IC〜直進/松江バイパス(国道9号線)〜左折/松江農林高実習農場〜県道〜合流/国道9号線〜左折/ 袖師〜県道〜宍道湖大橋〜突き当たり
駐車場 : 堀川遊覧船大手前乗り場の有料駐車場を利用


「松江市」公式HPへ リンク

松江開府400年祭

NPO法人 松江ツーリズム研究会 松江城

宍道湖の夕日

しんじこの夕日

国土交通省 松江国道事務所 さま 提供フリー画像 

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  (宍道湖の夕日)
■  松江城めぐり2三の丸跡〜大手木戸門跡〜馬溜〜大手門跡〜二の丸下の段(米蔵曲輪)〜
  北惣門橋〜宇賀橋〜本丸下帯曲輪〜本丸下中曲輪〜三の門跡〜二の丸上の段〜二ノ門跡〜
  一の門・南多聞櫓〜本丸〜天守閣〜天守内部〜天守からの遠望)
■  松江城めぐり3本丸〜北の門跡〜腰曲輪〜水の手門跡〜中曲輪〜馬洗池〜北の丸跡
  〜城山稲荷曲輪〜内濠北側〜外曲輪〜後曲輪〜椿谷〜舟着き場跡〜廊下橋〜三の丸跡
  西三の丸跡)・(松江城の知られざるカラクリ)・(堀尾吉晴の墓所)

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