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中国地方

伯耆(鳥取県西部)

栄華盛衰の歴史を辿った南条氏10代の山城

伯耆[ほうき] 羽衣石城[うえしじょう] (平山城) 【所在地】 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石

築城時期:  1366(貞治5年) 築城者:  南条貞宗

うえし じょう 復元?された模擬 天守閣

 遺 構  《 遺構/曲輪・土塁・石垣・堀切・井戸  模擬/天守閣 》
 山陰本線倉吉駅と松崎駅のほぼ中間の長和田から羽衣石川の渓流に沿って約4km上ると羽衣石の集落がある。
集落を過ぎて山道を中腹まで車で行くと、曲輪跡である駐車場がある広場に辿り着く。ここから二通りの徒歩での登城ルートがあるが、八幡神社経由の方がきつい登りだが、途中、羽衣伝説の羽衣石や石垣を見ることができる。

 現在残っている羽衣石城の遺構は、頂上部と中腹の尾根上に見ることができるが、その縄張りは、山頂部に本丸・二の丸・三の丸を配置し、二段の帯曲輪が主郭部を取り巻いている。
 本丸は東西約66m、南北約20mの東西に長いもので、その西端に模擬天守がある。本丸の東側には三段に削平された郭があり、中央部南端には東西約10m、南北16mの郭がある。この郭の下に虎口が設けられている。

 本丸北側にも二段の郭があり、このあたりは三の丸と呼ばれている。城の正面と思われる北西方向の中腹(標柱のある道の分岐点)には、小さな郭とその西側に隣接する郭が設けられている。ここから東側を100mほどさかのぼった所には、旱魃でも枯れないという「お茶の水井戸」がある。
 標柱のある分岐点の下段から北西の尾根の八幡神社のあるところにかけて九つの郭が階段状に配置されている。また、この尾根の中ほどから西に延びる尾根にも大小五つの郭があり、北東を大手としている。


 羽衣石城は、室町時代初期の1366(貞治5)年、伯耆国に所領を得た南条貞宗によって築かれ、以後10代に渡った有為転変の南条氏代々の居城であった。

 1524(大永4)年、出雲・月山富田城主尼子経久の伯耆侵攻(「五月崩れ」)によって羽衣石城は落城。南条氏8代の宗勝は因幡に逃れ、尼子氏は因幡攻略の拠点として、新宮党尼子国久を羽衣石城主に据えた。

 尼子氏が毛利氏によって滅亡すると、宗勝は毛利一族の吉川元春の支援を得て羽衣石城主に返り咲いた。
9代元続は羽柴秀吉に与し、毛利氏と敵対した。一度は吉川元春により羽衣石城は落城するが、その後奪還する。
 織田信長が本能寺で倒れたあとの、羽柴氏と毛利氏との和睦により、元続は伯耆四郡6万石(一説に4万石)を領有することとなった。

 1600(慶長5)年、“関が原の戦い”で西軍に与した10代元忠は改易となって浪人となり、羽衣石城も廃城となった。

 1615(慶長19)年の“大坂の陣”で大坂城に篭城した元忠は、徳川方に内通し、持場の平野橋口で、塀や柱の上下より五寸ほど切って攻め込む便をはかったが、見破られて大坂城内で切腹させられ、栄華盛衰の歴史を辿った南条氏はここに滅亡した。

羽衣石川を上流に遡って、羽衣石集落を過ぎた所の
中村橋を右折
ここから駐車場まで約1.5キロです

すぐに、正面の山上に模擬天守が見えてきます
模擬天守をアップ
標高376m(比高280m)の山上は、結構急峻です
ここを左折して山道を登って行きます
羽衣石城址の案内標識を頼りに行かれます
山道を登り詰めると、
トイレ・周辺案内図などのある広場があります
トイレ左側の木段を上ると、本丸まで0.5キロ、約20分です
トイレ右側の登り口を上がりました
こちらからは、本丸まで0.4キロ、約15分です

急峻な山道をつづら折に登ります

途中にある天然の塁壁
人が築いた石垣ではなく自然のものだが、出入の重要な
位置にあり、敵の侵攻を食い止める、また出入する人を
検問する場所として、この岩が利用されたものと考えられる
途中の「羽衣伝説」の残る大石のところ 主郭(本丸)西端に建つ復元?された模擬天守
天守下の段の展望四阿より西方の羽衣石集落を見下ろす 天守下の段の展望四阿より西北の東郷池方面を望む
平成2年に復元?された模擬天守(木造)
実は、この復元前には、昭和6年に南条氏の後裔によって建てられた鉄骨作りトタン貼りの初代模擬天守があった
そうです

余呉さんのお城のページ」に
初代の模擬天守が掲載されています


主郭に建つ大きくて立派な城址碑


主郭東側から模擬天守を見る
主郭東側には三段に削平された郭があります

南条元続(なんじょう もとつぐ)→元忠(もとただ)

 元続 1549(天文18)〜1591(天正19)
伯耆の国人・南条宗勝の嫡男として生まれた安土桃山時代の武将。
家督を継ぎ、毛利氏一族の吉川元春から家督・所領を安堵されていたが、織田信長の勢力が因幡へも伸長して来ると織田氏へと気脈を通じ、秀吉の鳥取城攻撃の際は、羽衣石城にあって毛利氏の鳥取救援を妨害し、鳥取落城を早める一因を作った。
毛利氏の猛攻により一旦は落城するが、信長横死後の羽柴氏と毛利氏の和睦により、羽衣石城に復帰する。
以後は秀吉の傘下に入り、九州遠征にも加わり小田原の陣にも出向いた。晩年は中風により、弟の小鴨元清に政務を代執行させ、病没する。

 元忠 ?〜1615(慶長19)
父(元続)の死去に伴い家督を継ぐが幼少であったため、秀吉の朝鮮出兵には後見人の小鴨元清が参陣した。
関ヶ原の戦いでは与した西軍が敗れ、浪人となる。大坂冬の陣では、旧臣とともに大坂入城、藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に徳川軍に寝返ろうとするも見破られ、城内千畳敷で切腹させられる。
「裏切りの伯耆侍古畳み南条もって役にたたばや」と落首された。

羽衣伝説
 この山に天女が舞い降りて、大石に羽衣をかけて入浴していたところ、通りかかった農夫が羽衣を持ち去ってしまい、天上に帰ることが出来ない天女は農夫の妻となった。やがて、二人の間に出来た子供に羽衣の隠し場所を聞き出し、羽衣をまとって天に昇っていき、子供が泣き悲しんで、太鼓と笛を奏で、天女を呼び戻そうとしたが、天女はついに帰りませんでした。
 いつしか、天女の舞い降りた山を「羽衣石山」、太鼓や笛を鳴らした山を「打吹山」(倉吉市)と呼ぶようになったと言う。

周辺案内図
(現地案内板より)

この日は早朝5時から、月山冨田城、新宮党館、羽衣石城への登城後、田内城をパスして、
山陰の名湯・三朝温泉へ向かいました…
三徳川に架かる三朝橋の袂にある「無料河原露天風呂」
壮快の一語です!
三朝温泉に二ヶ所あるうちの「株湯共同浴場」
分かりづらい場所にありますが、湯は最高です!

登城アクセス
 車  : 米子道米子IC〜右折/国道9号線〜右折/御来屋〜国道9号線〜
  右折/長瀬新川入口〜湯梨浜町役場前〜突当たり/左折〜右折/最初の
  信号無し十字路〜左折〜町道〜左折/長和田〜右折/羽衣石橋の袂〜羽衣
  石集落〜左折〜左折〜登り口

駐車場 : 登り口に無料駐車場あり


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