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ザ・登城

中国地方

因幡(鳥取県東部)

秀吉の兵糧攻めで飢餓地獄に陥った城

因幡[いなば] 鳥取城[とっとりじょう] 別称=久松城  (平山城) 【所在地】 鳥取県鳥取市東町

築城時期:  1545(天文14)年 築城者:  山名誠通(のぶみち)

とっとり じょう 二の丸 三階櫓台跡
櫓台の大きさは八間(14.6m)四方で、元禄5(1692)年に山上の丸の
天守櫓が焼失したのちは、この三階櫓が鳥取城を象徴するものとなり、
明治12(1879)年の解体撤去までその威容を誇っていた

 遺 構  《 復元/城門  遺構/曲輪・天守台・石垣・堀・石段・井戸  》
 鳥取城は、鳥取市北東の標高263mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂を中心とした山城部の山上の丸と、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸、丸の内などからなる平山城部からなる性格の異なる二種類の遺跡で構成された梯郭式の城郭である。
 また、鳥取城本丸から1.4キロメートル東に位置する帝釈山頂には、“鳥取城篭城戦”で羽柴(豊臣)秀吉が本陣とした「太閤ヶ平」がある。

 城跡の建造物としては、唯一、山麓に復元された城門がみられるだけだが、山麓の山下の丸一帯に累々と築かれた石垣群は誠に見事なもので、32万5千石の近世大名の居城であったことえお如実に物語っている。

 二の丸跡から山頂への急峻な坂道「中坂道」を息せき切って30分ほど登ると、ガイドマップも推奨する「絶景」の眺望が待ち受けている。眼下には、鳥取市街から、千代川の清流、鳥取大砂丘が目に飛び込み、その先には、日本海が果てしなく広がっています。
 この山上の丸には、本丸跡に天守台、多門櫓跡、着見櫓,、走櫓の石垣が残り、車井戸もある。下段の出丸跡にも平櫓の石垣が残されています。


 鳥取城は、天神山城(鳥取市湖山町南3丁目)を拠点に因幡を統治した山名氏の出城として、1545(天文14)年に山名誠通が築いたと伝わる。
 1573(天正元)年、山名豊国は天神山城から居城を移し、三層天守も移した。

 1580(天正8)年、織田信長軍の中国方面先鋒・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻め。城主の山名豊国は、同盟を結ぶ毛利氏に背いて秀吉に降ったため、家臣に追放されたともいう。
 翌天正9年、代わって毛利方の吉川経家が入城するが、秀吉の「渇え殺し」で開城、経家は自刃する。

 天正10年、宮部継潤が但馬豊岡(豊岡市京町)から入封する。
 1600(慶長5)年の“関が原の合戦”の翌年、関ヶ原で西軍についた宮部継潤が改易されると、姫路城主・池田輝政の弟・池田長吉が6万石で入り、山上・山下の丸の整備拡張に着手し、長幸に継いで、 備中松山へ転封となる。 

 1617(元和3)年、姫路城主・池田光政(池田宗家・輝政の嫡孫)が幼少を理由に因幡伯耆二ヶ国32万5千石を領して入る。 
光政は6万石規模の城下では手狭であったため、家老の日置豊前が総指揮をとり、袋川の流路を変えたり、3街道を拓いて碁盤の目とする城下町の造営を施した。

 一方、前後するが、備前岡山には小早川秀秋改易のあと、池田輝政の二男(輝政継室=徳川家康二女・督(富子)の子)で家康が非常に愛した外孫・池田忠継がわずか5歳で備前一国28万石を別家として与えられ岡山藩主となり、さらに38万石に加増となる。後見として姫路藩主である兄池田利隆が岡山城に入って実務を見た。しかし、忠継はわずか3年、8歳で早世。
 備前岡山は弟の忠雄が継ぐが、忠雄も31歳で亡くなり、子の光仲が3歳で岡山藩主となるが、山陽の拠点岡山は幼少では治めがたいとして、従兄弟の池田光政との相互国替として、1632(寛永9)年、池田光仲が鳥取城に入城して城下の町割りを完成させた。

 以後、鳥取城下は光仲を藩祖とし、直系子孫によって明治まで12代238年間つづいた。
 姫路→鳥取→岡山と移った利隆→光政の流れが嫡流であり、光仲を祖とする池田家は分家筋なのだが、家康の血が入っており三葉葵の紋の使用を許されているし、若干石高も高い。

 なお、鳥取池田家は明治まで12代つづいたが、11代藩主・慶栄(よしたか)は加賀金沢藩主前田斉泰の二男である。また、12代藩主・慶徳(よしのり)は、常陸水戸藩主徳川斉昭の五男であり、幕府の命で跡を継ぎ最後の鳥取藩主となった。一橋家に養子入りした後、15代将軍となった徳川慶喜(徳川斉昭の七男)の異母兄にあたり、慶徳は幕末の激動期において、微妙な立場となり大いに苦慮した。

南西から久松山を遠望する
早朝の5時すぎ、まだ車も人も通っていません
中ノ御門越しに久松山を見る
中ノ御門より北側の北御門方向の堀を見る 中ノ御門より南側の南御門方向の堀を見る

中ノ御門跡

太鼓御門跡の石垣
池田長吉の時に、大手口が北ノ御門から中ノ御門に改められた。時を告げる太鼓が置かれた櫓門で、桁行12間(約22m)、梁間2間半(約5.4m)であった。門前が下乗場であった
太鼓門跡より天球丸の石垣を遠望する 堀端の武道館脇に建つ毛利方の城将・吉川経家像

北御門跡の雁木
復元 城門
旧丸の内から旧二の丸に通じる境の門で、
城内唯一の城門です
裏門跡を上から見る 裏門跡に至る石段より二の丸の御三階櫓台を見上げる
右膳の丸跡
嘉永2(1849)年に拡張された曲輪で、
登り石垣が見られる
二の丸跡
山下の丸のほぼ中央部に位置し、
幕藩期には藩主の居館があった
かつては、南西隅に御三階櫓、
南東隅には走櫓・菱櫓が重厚に聳えていた
二の丸 御三階櫓台
この櫓台上に、ありし日の御三階櫓が
復元される日がやってきます

御三階櫓台上より南西方向を見下ろす
菱櫓台上から走櫓台を見る 石垣修築工事中の天球丸下の段
表門(鉄御門)跡櫓台上より天球丸を見る
二の丸の南東一段上に位置し、池田長吉の姉・天球院の居所で、かつては三階櫓、御風呂屋御門などの建物が
あった

三の丸から二の丸に通じる大手口表門(鉄御門)跡

三の丸から二の丸および、天球丸に通じる冠木門跡 鉄御門跡石垣上より見る
菱櫓は四間(7.3m)四方の二層櫓で、櫓台も建物も、
加賀金沢城と同じ菱形の形状をなしている
これより、山上の丸(山頂)に登ります
二の丸からの山上の丸への登り口 山上の丸の本丸跡南面の石垣
山上の丸の二の丸への虎口石段 山上の丸の二の丸跡
二の丸より一段下の山上の丸・三の丸跡 山上の丸の本丸跡
奥に天守台の石垣が見えます
山上の丸・本丸跡に残る車井戸
池田長吉が慶長7(1602)年から行なった
大改築の時に掘った井戸と伝わる

山上の丸の本丸跡の天守台
山上の丸・天守台上より北の鳥取砂丘方向を見る 山上の丸・天守台上より北東の
鳥取空港・千代川河口を見る
山上の丸・天守台上より東方向の大山・鳥取市街地を望む 山上の丸・本丸跡より羽柴秀吉が本陣を構えた
太閤ヶ平(標高252m)方向を見る
山上の丸・本丸跡東直下の出丸(曲輪)跡
石垣も散見できます
山麓の仁風閣隣の宝隆院庭園
小雨のなか、参詣にきた新郎新婦と
山下の丸北西側の約半分と山上の丸のある久松山

地獄絵さながらの惨状を呈した 鳥取城篭城戦と吉川経家

 鳥取城篭城戦を最後まで戦い抜き、しかも、敗北の責任をとる形で自刃していった吉川経家は、はじめから鳥取城の城将だったというわけではなかった。前の城主が、羽柴秀吉の勧降工作を受けて降伏してしまったあと、徹底抗戦を叫ぶ将兵たちに請われて入城したものである。

 鳥取城は、元来、“応仁・文明の乱”のときの西軍総帥・山名宗全(持豊)5代の孫・山名豊国の居城であった。
 毛利氏に属していた豊国は、山中鹿介が尼子勝久を奉じて旗を挙げた時には、これに応じて毛利氏に叛旗を翻したが、尼子氏が滅びてしまうと、また、毛利氏の下に復帰したと言う過去をもっている。
 織田信長の中国政略が始まり、その命を受けた羽柴秀吉から攻められ、鹿野に人質として置かれていた豊国の娘が鹿野城陥落のおり捕われ、「降伏すれば因幡一国を与えるが、否らざれば娘を磔刑にした上、城攻めを行なう」と脅かされ、秀吉からの条件をのんで降伏してしまったのである。
 ところが、降伏の回答が遅れたことを怒った秀吉は、約束を破り、豊国には因幡のうち2郡だけを与えることにした。それでも豊国は納得して城を出たわけであるが、家老だった森下道誉・中村春継をはじめとする将兵たちは、その措置を不満とし、徹底抗戦に立ちあがったというわけである。一説に、森下・中村らが豊国の態度を遺憾とし、城から追放してしまったともいう。

 秀吉への屈服を嫌った城兵は、毛利方の山陰方面での総大将である吉川元春に急使を送り、新たな城主を送りこむよう要請した。はじめ吉川元春の家臣数名が入城したが、「もっと指揮戦闘力のある武将を送ってほしい」と願い出ている。
 こうして選ばれたのが、当時、石見国の福光城(島根県邇摩郡温泉津町福光)の城主だった吉川経安の子・経家、35歳であった。

 吉川経家が、起死回生をかけた「経家首桶」と記した美々しい黒塗りの桶を先頭に、手勢四百を引きつれて鳥取城に入ったのは1581(天正9)年3月18日であった。
入城早々、経家は、千代川のそばに丸山城を築かせ、城外からの糧道確保の手だてをとるとともに、長期の篭城戦をみこし、兵糧米を城内に運びこもうとしたが、村々から兵糧米を徴収してみたら、わずかしか集まらなかった。
 それ以前に、秀吉の命を受けた若狭の商人が大挙してやってきて、因幡の村々から時価の数倍で買いあさっていってしまったのである。これで勝敗がついたも同然で、経家は愕然としたが、秀吉の調略はそれだけではなかった。
 はじめ、城兵は1,400ほどだったが、秀吉側の計略で、村々の百姓にひどい仕打ちをして、彼らが否応なく鳥取城に逃げ込むように仕向けたのであった。

 そのため、篭城の人数は、城兵だけでなく、百姓も合わせ約4,000に膨れあがり、兵糧米はみるみる減り、ついには、城内の犬・猫は勿論、鼠まで食い尽くした。さらに、木の実・草の根、最後には、腹をすかして柵にとりついたところを鉄砲で撃たれて死んだ者や餓死した人肉まで食べるという、地獄絵さながらの惨状を呈する事態を迎えた。

 秀吉の攻囲方法は例によって、すこぶる大掛かりなものであった。秀吉軍2万は太閤ヶ平に本陣を設け、糧道を断つ包囲網は総延長20kmにもおよぶ大規模なもので、アリの這い出る隙も無いほどであった。
 鳥取城が完全に包囲されたのは7月12日。経家は、冬まで城をもちこたえることができれば、秀吉軍も囲みを解いて撤退すると考えていたが、城兵までが、土を掘って虫を喰い、壁土をほじって口に含み、遂には草履の藁までしゃぶるに至り、結局、篭城100余日で、経家はこれ以上の篭城は無理と判断し、自らの切腹と引きかえに城兵の命を助けることを申し出た。

 秀吉は、経家が請われて入城したいきさつを知っており、責任は森下道誉・中村春継の二人にあるとし、はじめは経家の切腹を許さなかった。しかし、経家の決心は固く、10月25日、城内広間の検死役を前にした経家の自刃で、鳥取城の「渇え殺し」の戦いは幕をおろしたのである。


 その潔い最期は、武人の鑑として敵味方の双方から惜しまれたが、経家が死に臨み、四人の子にしたためた手紙を紹介します。

鳥取のこと よるひる二ひゃくにち こらえ候 ひょうろうつきはて候まま
我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候
そのしあわせものがたり おき々あるべく候  かしこ

 凄惨をきわめた鳥取城篭城戦については、南条範夫著「廃城奇譚」の「地獄城」にリアルに猟奇的に描かれています。ご一読ください。

案内図
(現地案内板より)

山上の丸(山頂部)案内図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 中国道作用IC〜左折/作用インター〜国道373号線〜右折/中町〜
  国道53号線〜右折/今町一丁目〜左折/栄町〜左折/鳥取県庁前〜国道53
  号線〜右折/鳥取地方裁判所の角〜突き当たり

  ※ 中国道作用JCTから鳥取ICまでの中国横断自動車道姫路鳥取線が
  平成21年度に開通予定です

駐車場 : 県立博物館の奥に有料駐車場あり

◇◇ 城郭復元の情報 ◇◇

鳥取市は、国史跡である鳥取城跡および、附太閤ヶ平の「史跡鳥取城跡保存整備実施計画」を策定し、
平成30年までの事業内容を示しています。

史跡鳥取城跡保存整備実施計画


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