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中国地方

因幡(鳥取県東部)

亀井茲矩が大改修した異国情緒あふれる城

因幡[いなば] 鹿野城[しかのじょう] 別称=王舎城  (平山城) 【所在地】 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野

築城時期:  室町時代初期、1581(天正9)年 築城者:  志加奴氏、亀井茲矩

しかの じょう 外堀と旧山城部分の城山

 遺 構  《  遺構/曲輪・天守台・石垣・堀・土塁  》
 鹿野城は、標高148mの城山山頂に設けられた本丸を中心に、二の丸・三の丸と階段状に配置されている。また鳥取県内の近世城郭としてはただ一つ、西の丸の呼称を持つ郭も存在する。
 本丸には小規模な天守台が残り、2層程度の天守が存在していたと推測される。山麓の周囲には内掘や薬研堀が、さらにその外側には外堀が構えられている。

 近世城郭に大改修した亀井茲矩は朱印船貿易で富を得ていたため、オランダ櫓や朝鮮櫓などの異国情緒あふれる名称の櫓を建て、自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けていた。
 今日、城址は「鹿野城跡公園」として綺麗に整備されてはいるが、往時の異国情緒の名残りが何一つ残されていないのが残念でならない。城址には鹿野中学校が存在している。

 茲矩はたいへん豪快な武将であったと思われ、秀吉が「もはや出雲を与えることが出来なくなった。他に欲しいところはないか?」と訊ねられると、「琉球を下さい」と言い、その大胆な発想を誉め讃え、秀吉は笑って軍扇に「亀井琉球守」と記し、授けたという。
 亀井茲矩は城山山頂から果てしなく広がる日本海を眺め、海の向こうのインドやシャム(今のタイ)などの異国に想いを馳せたのであろう。

 登城途中、強い雨と帰る刻限も近づいて、城山山頂に登れなくなり、茲矩のように気宇壮大な気分に浸れなかったのが残念である。


 鹿野城の築城年代は不明だが、因幡守護山名氏麾下の志加奴(しかぬ)氏代々の居城であったと伝わる。
 戦国時代に入ると、天神山城(鳥取市湖山町)を本拠とする因幡山名氏と月山冨田城の尼子氏との争奪戦の舞台となった。
   1566(永禄9)年、毛利氏によって尼子氏が滅び、因幡山名氏の勢力が急速に衰えると、鹿野城は毛利氏の支城となった。

 1578(天正6)年、織田信長から中国攻略を命じられた羽柴(豊臣)秀吉は、謀略をもって鹿野城を攻略し、亀井茲矩を守将とした。
 1581(天正9)年、羽柴(豊臣)秀吉は吉川経家が篭る鳥取城を攻囲し、地獄絵さながらの惨状を呈した「渇え殺し」で降伏開城させた。この時、亀井茲矩は毛利軍を相手に鹿野城を死守、周辺諸城を攻略した戦功により、1万3千石を与えられて鹿野城主となった。
 “関が原の戦い”で東軍に与した亀井茲矩は、戦功により3万8千石に加増され、後を継いだ亀井政矩も加増を受けて4万3千石の大名となった。

 1617(元和3)年、亀井政矩は石見津和野(島根県鹿足郡津和野町)に転封し、鳥取城主・池田氏の家老・日置豊前に鹿野城は与えられたが、1628(寛永5)年に出火し鹿野城は廃城となった。

 1632(寛永9)年、鳥取城主・池田光仲の二男・仲澄が鹿野2万5千石(のちに3万石となる)を分知され、鳥取東館新田藩(藩庁は鳥取城下に置かれた)を構えた。
以後、鹿野池田氏は明治まで9代続いたが、幕末に鹿野に陣屋を置いたので、鹿野藩と称する場合もある。

旧城下町を貫く旧街道の鹿野往来
奥に見えるのは城山です
外堀と櫓台跡
外堀を西から東に見る 城域西側は城跡公園として
綺麗に整備されています
西から東に見た内堀 東側に残る薬研堀跡
亀井茲矩が舅の山中鹿介の菩提を弔うために
移築して寺名変更をした鹿野山幸盛寺
幸盛寺境内にある山中鹿介の墳墓

鳥瞰図
(現地案内板より)

鹿野城跡公園 案内図
(現地案内板より)

登城アクセス
 車  : 中国道作用IC〜左折/作用インター〜国道373号線〜右折/中町〜
  国道53号線〜左折/天神町〜左折/千代大橋袂〜県道21号線〜左折/気高
  町〜左折/鹿野郵便局〜左折〜右折〜(鹿野中学校)

※ 中国道作用JCTから鳥取ICまでの中国横断自動車道姫路鳥取線が
  平成21年度に開通予定です

駐車場 : 鹿野城跡公園に無料駐車場あり


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