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ザ・登城

中国地方

備後(広島県東部)

水軍を支配した毛利両川の一翼、小早川隆景が居城した日本三大水城の一つ

三原城 別称=浮城 (平城・海城) 【所在地】 広島県三原市城町

 築城時期:  1567年(永禄10)  築城者:  小早川隆景

みはら  じょう
本丸天守台石垣&内堀 (西面)

 遺 構  《 遺構/曲輪・天守台・石垣・堀 》
本丸部分を貫通しているJR三原駅
高石垣は天守台(西面)です 
天守台東側の内堀
堀幅は改変されています
本丸天守台 (西面)
広島城の天守閣なら6つ入るほどの広さがある
三原城築城の約10年後に安土城の天主は作られ、
その後多くの城郭で天守が造られましたが、この時期、
山城から平城に移行する時代のごく初期の築城のため、
三原城には天守閣が設けられませんでした
 
天守台跡
南から北を見る

小公園として整備されていますが、遺構は何もありません

 三原城は、中国地方の覇者毛利氏の「毛利両川体制」の一翼を担った小早川隆景が城郭としての体裁を整えた名城である。
沼田川河口の三原浦の大島・小島を利用して築城した海城で、南は瀬戸内海に面し、濠には海水が入り、干満により水位が変化した。海に向かって広がる台形をなした海の要塞であった。

 かつての規模は、天守台から南に広がった本丸とその東・西・南側に二の丸を置き、その東側に三の丸と東突出、西側に西突出を設け、本丸東南には突出部を持つ船入櫓を備えてあった。また、城の背後の北側には、新高山城下(豊田郡本郷町)から毛利氏関連の寺院の数々を移築させ、砦としての機能を持たせていた。
本丸北側に天守台を築いたが建立せず、3隅に櫓を置き、多聞櫓(走り長屋)で連結していた。城内には櫓32基と14ケ所の城門が配置された城郭兼軍港であった。

 このような水軍仕様の三原城も、明治中期の鉄道建設により本丸跡が貫通され、その後の市街地化により、現在では、天守台とそれを取り巻く3方の濠と、駅の南側の船入櫓の石垣と濠(かつては海)および、本丸中門跡・臨海一番櫓跡の石垣・濠を残すのみとなってしまっている。

 それにしても、明治時代のこととはいえ、今では考えられないような鉄道のルート設定にはなんとも言えない無念感が残り、残念である。


 小早川隆景が1567年(永禄10)に築城して、本拠を新高山城(広島県本郷町)から三原城へと移した。城はその後も増改築が繰り返され、1582年(天正10)頃までには完成したと言われている。

 1587年(天正15)、隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増され、名島城(福岡県福岡市東区)に居城を移したが、、1595年(文禄4)、養子の秀秋に家督・筑前国を譲り、三原城に戻り隠居した。
本拠に戻った隆景は、三原城を完成させるべく再び工事に取り掛かるが、翌々年、病を得て亡くなってしまう。

 1600年(慶長5)、関が原の戦功により福島正則が安芸広島城に入ると、支城として福島正之を入れた。

 1619年(元和5)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山から浅野長晟が広島に入封し、三原城には、浅野家筆頭家老浅野忠吉(浅野長政の従兄弟)が紀伊新宮(和歌山県新宮市)より入り、代々相続して明治に至った。

船入櫓跡 (南東面)
かつての規模は、船入りの幅12間(21.6m)、広さ20間(36m)、深さ1丈(3m)であった 櫓台石垣の高さ4間(7.2m)
現在は堀になっていますが、かつては、
海であり、繋がっていました
船入櫓跡

駅南の三原市福祉会館の東側、城町公園となっています

本丸中門跡
正面・左端石積みは後年の築造です
白い建物はペアシティ西館 
本丸中門跡の濠を南から北に見る
左側奥の建物がJR三原駅舎
臨海一番櫓跡
かつては、この場所が城郭の一番の南端でした 
JR三原駅および駅前広場(南口)
かつては、このあたりは本丸御殿のあったところです

隆景広場(西口広場)にある
小早川隆景 坐像
駅舎一階北端の階段の所に
縄張りレリーフがあります
左画像の階段を上がった2階北側
から天守台跡に行けます

(駅構内入場券不要)
6:00〜22:00まで

三原城縄張図(慶応年間)
往時と現況の比較図
白い淡色部分が往時の城域、中間色部分は往時の海および濠部分、
濃色部分は現況の三原港(海)および河川を示します

(2画像とも現地案内解説板へ文字挿入加工)
知勇兼備の名将 小早川隆景 1533〜1597 

 毛利元就の三男として吉田郡山城に生まれる。元就には9人の男子がいたが、その資質を最も色濃く受け継いだのが隆景であると言われている。
長兄隆元亡きあと、山陰方面を担当した兄の吉川元春とともに、「毛利両川体制」の一翼として、山陽道・瀬戸内水軍を統率して毛利氏の中国地方制覇を達成させる。
元就が死去し、武闘派元春が九州の陣中で没すると、隆元の遺児である当主・輝元を補佐し、八面六臂の活躍をなし、終生その姿勢を変える事はなかった。

 信長の下で毛利氏と対決してきた豊臣秀吉は敵であった隆景の人物・実力を高く評価し、のちに豊臣政権・五大老の一人に遇された。筑前に居城を得た隆景は高齢を押して秀吉による朝鮮出兵に出陣し、碧蹄館の戦いにおいて2万の明軍を撃破し講和のきっかけを作る。

 再び三原に戻った、類稀な智謀を有し、思慮分別が抜群だった隆景は秀吉が没する前年(慶長2年)の6月12日に帰らぬ人となる。享年65歳。

■ 12歳時、毛利氏が属していた大内義隆の斡旋により竹原小早川家の養子となり家督を継ぐ
■ 1550年(天文19・18歳)、本家・沼田小早川家の当主の妹を娶り、小早川本家を相続する
■ 翌年、沼田小早川家の居城・高山城に入るが、一年もたたずして、本拠を沼田川対岸の新高山城に移す
■ 「厳島の戦い」(1555・弘治元・23歳)で水軍を率いて、毛利軍大勝に貢献する(陶晴賢自刃)
■ 1582年(天正10・50歳)、秀吉による備中高松城水攻めで講和を図る
■ 秀吉の四国征伐の功により、伊予35万石に封じられる(毛利氏の分国として受領)
■ 秀吉の九州攻めの功により、筑前一国・筑後および肥前の一部30万7千石余りを得て、名島城を居城とする
■ 1593年(文禄2・61歳)、文禄の役の“碧蹄館の戦い”で活躍。秀秋を養子に迎える。この頃、豊臣政権・
 五大老の一人となる

☆ さわやかに生きた智将・隆景の逸話を紹介します ☆

 隆景は兄の吉川元春とともに毛利家を支えたが、兄の元春は典型的な武闘派タイプの猛将で、徹底的な秀吉嫌いとして知られている。
隆景の最も有名な逸話は、何と言っても本能寺の変の際の決断であろう。
 備中高松城に毛利家勇将・清水宗治を水攻めにより閉じ込めた秀吉の元に“本能寺の変”を告げる使者が駆け込んだときのこと。ご存じの通り秀吉は毛利方の外交担当僧・安国寺恵瓊を通じて急遽和睦をとりまとめ、「中国大返し」と呼ばれる退転を行い、明智光秀を山崎で撃破したことは史上名高い。

 このとき何故毛利軍は秀吉を追わなかったのか。兄の元春は強行に追撃を主張したと言われる。しかし隆景は、
「一旦和議を結んだからには、ここで追撃するは義に反する」 「天下はやがてかの者(秀吉)のものとなる。今追撃すればやがてはかの者を敵に回して正面衝突するのは必定。ここは黙って見過ごし、中国者の度量を見せて彼に恩を売っておくべきだ。のちのち、必ず当家にとって有利な展開になろう」
と元春を説き伏せた。元春も弟の智謀には一目置いていたので、しぶしぶこれに同意したという。あとは歴史の示す通り、秀吉は天下人に登りつめ、隆景は秀吉から も非常に信頼され、豊臣家五大老に選ばれることになる。

 隆景の養子・小早川秀秋(筑前52万石)は、“関が原の合戦”において、はじめ西軍として参陣したが、途中、裏切りして東軍に加担、西軍敗北の要因となり、のちに白眼視されたという。
 合戦後、秀秋は備前・美作二ケ国を領し、岡山城に入るが、2年後には怪死(21歳)し、嗣子なく小早川宗家は断絶する。
 秀吉に待望の秀頼が誕生すると、秀吉は、3歳の時秀吉の養子となっていた秀秋(秀吉の正室ねね{北政所}の兄・木下家定の五男)を、いまだ嫡子のなかった毛利輝元の養子とすべく画策する。これを知った隆景は、すでに、秀包(元就の9男)を養子としていたが、毛利主家を守るため、秀秋を養子に迎えたという。

 隆景は関が原の3年前には病没していた訳であるが、義に厚く、温厚にして博識、家中の信頼も厚く、誰からも慕われる人柄であったという隆景が存命していたなら、関が原およびその後の歴史は、どう展開していったのか・・・・・興味の尽きないところではある。

新高山城の城門を山門として移築したもの
桃山風の重厚な四脚門で、切妻造り本瓦葺き
宗光寺(そうこうじ) ※ 駅の北西、徒歩約15分


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